韓非子

定法篇

システムによる統治の確立。属人的な統治から脱却し、法とルールによって組織を動かす恒久的な制度設計。君主は「術」で人材を管理し、臣下は「法」を師として行動する、近代的な組織運営の原型。
最重要格言
明主めいしゅの国は、書簡しょかんの文無く、法を以て教えと為し、先王の語無く、を以てと為す

賢明な君主の国では、古い書物に頼らず法を教育の基準とし、過去の聖人の言葉ではなく、実務を担う官吏を手本とする。

問いていわく、申子しんし商君しょうくんいずれか其のじゅつ、国の為に要なる。 こたえていわく、れ、きつるに足らざるの問なり。人の、日に十里を行きて、夜に百里を行くは、其の力、かたより異なり。人の、えて一の食にき、かつして一せきの飲に満つるは、其の腸胃、かたより異なり。 今、申不害しんふがいじゅつを主とし、公孫鞅こうそんおうは法を主とす。じゅつとは、能に因りて官を授け、名をしたがいて其の実を責め、殺生さっせいへいあやつり、群臣のけんするなり。此れ人主の之をる所以の者なり。法とは、憲令けんれい官府かんぷに著し、刑ばつ、民心に信ぜられ、しょうつつしむ者を存し、ばつかんおかす者に加うるなり。此れ臣下の之をとする所以の者なり。君、じゅつ無くんば、則ち上におおわれ、臣、法無くんば、則ち下に乱る。一もぶ可からず。皆な帝王の具なり。

問いていわく、両つながら倶に之を舎つ可からずんば、則ち申・商のじゅついずれか先なる。 こたえていわく、申子しんしの言たる、其の源、黄老こうろうに出で、其の当たる所は刑名けいめいなり。号して刑名けいめいいわうも、其の実は形名けいめいなり。名は自ら定め、形は自ら勝つ。故に、其の主は、いずくんぞ事あらん。申子しんし、其の言のこうする所を知らざるなり。 公孫鞅こうそんおうの法たる、耕戦を教う。此れ、人の主の其の力を以て易う可き所以の者にして、しかも、其の勢を以て禁ず可きに非ず。然り。人の主の、尭・しゅんとう・文・武有りといえども、其の治をまたた今日の世に存すること能わざるなり。 申不害しんふがいは韓の昭侯しょうこうに説く。昭侯しょうこう、之を用う。十年ならずして、昭侯しょうこうぼつし、国、かためられず、兵、強くならず。申子しんし、其のじゅつたる、独り其の身に在り。故に人主、いやしぎょうの智無くんば、其の説のなるを知ること難し。 公孫鞅こうそんおうは秦の孝公こうこうに説く。孝公こうこう、之を用う。移風易俗いふうえきぞくし、国、富み兵、強く、百姓、このしみて之を用い、諸侯、親附しんぷし、やぶり、土地、千里をひろむ。今、其の法、なおお存す。 此れ其の可否のしるしなり。

然るに、今の世の刑名けいめい家、皆な申子しんしの之を為す所以の者をとす。臣、ひそかに以て其の不可なりと為す。申子しんしの言たる、大いに体を為さず。人主は、独り智を以て其の臣を照らすこと能わず。 故に、萬物ばんぶつにはりょう有り。大きさには有り。長さにはすう有り。重さにはけん有り。軽さにはこう有り。まく有り、有り。とは、事の理なり。察するに事の理を以てすれば、則ち物に失うこと無し。 およそ治は、法よりたっときはし。法よりかたきはし。より重きはし。勢いより便べんなるはし。此の四者は、治のいたりなり。故に、人主、之をらざる可からず。 然るに、今の世の言治は、皆ないわく、「ざさず、心を同じくして相信じ、あらそいをゆずがっい、相い愛するを以て治む」と。此れ、上、賢無く、下、不肖ふしょう無きがごとし。此の如きは、未だかつて乱有らざるなり。今の世は、然らず。 聖人はせずして古をおさめず、じょうを法とせず。今の世の事を論じ、因りて之がそなえを為す。 先王の書をう者は、皆ないわく、「しょうあつくして信ならしめ、ばつは重くして必ならしむ」と。此れ、其の治国の要なり。然るに、今の学者、皆な其のしょうばつうすきを以て相い高しと為す。

故に、明主めいしゅの国は、書簡しょかんの文無く、法を以て教えと為し、先王の語無く、を以てと為す。私剣しけんゆう無く、斬首ざんしゅを以てゆうと為す。 の故に、其の境内けいだい之民、皆な言は法にがっし、動は功にあたり、語は事をる。此れ、治のいたりなり。

ある人が尋ねて言った。「申不害しんふがいと商鞅、どちらのじゅつが国家にとってより重要だろうか。」 私が答えて言った。「それは、比較するまでもない問いである。ある人が日に十里歩き、別の人が夜に百里歩くとしたら、その体力は元より異なっている。ある人がえて一の食事で満腹になり、別の人が喉がかついて一せきの飲み物で満足するとしたら、その胃腸は元より異なっている。(このように、本質的に違うものを比較はできない)」 今、申不害しんふがいは「じゅつ」を主とし、公孫鞅こうそんおうは「法」を主としている。

  • じゅつとは、能力に応じて官職を授け、その職名にふさわしい実績を求め、生殺与奪のけん限を握り、家臣たちの能力を評価するものである。これは、君主が用いるべきものである。
  • とは、法令として役所に明記され、その刑ばつは民衆の心に信じられ、しょうつつしみ深い者に与えられ、ばつは悪事をおかす者に加えられるものである。これは、家臣たちが手本とすべきものである。 君主に「じゅつ」がなければ、家臣に欺かれる。家臣に「法」がなければ、下の者たちが乱れる。どちらか一つでも欠くことはできない。両方とも帝王の統治具なのである。

ある人が尋ねて言った。「もし両方とも欠かせないと言うなら、申不害しんふがいじゅつと商鞅の法、どちらを優先すべきか。」 私が答えて言った。「申不害しんふがいの言うところは、その源流を黄帝・老子の思想に持ち、その要点は刑名けいめいの学である。刑名けいめいと称しているが、その実態は形名けいめいである。臣下の言ったことと実績を比較検討することだ。このじゅつでは言ったことが自ずと定まり、実績が自ずとそれに伴う。だから君主は何もしなくてよい、ということになる。申不害しんふがいは、自分の説の限界を分かっていなかったのだ。」 「公孫鞅こうそんおうの法は、農耕と戦あらそを奨励するものである。これは、君主がその力をもって変えることができるものであり、そのけん勢をもって禁止すべきものではない。その通りだ。君主は、たとえぎょうしゅんとう・文・武といった古代の聖王がいたとしても、その治世を今日の世に再現することはできないのだ。申不害しんふがいは韓の昭侯しょうこうに仕え、昭侯しょうこうは彼のじゅつを用いた。しかし十年も経たないうちに昭侯しょうこうくなり、国は安定せず、軍も強くならなかった。申不害しんふがいじゅつというものは、彼個人の能力に依存するものだった。だから君主に、ぎょうのようなずば抜けた知性がなければ、彼の説の精妙さを理解するのは難しい。 公孫鞅こうそんおうは秦の孝公こうこうに仕え、孝公こうこうは彼の法を用いた。風俗は改まり、国は富み、軍は強くなり、民衆は喜んでこれを用い、諸侯は親しみ従い、やぶり、領土を千里も広げた。今でも、その法は生きている。 これこそが、どちらが優れているかの証拠である。

しかし、今の世の刑名けいめい家たちは、皆、申不害しんふがいのやり方を手本としている。私は、ひそかにそれは間違いだと考えている。申不害しんふがいの説は、国家統治の根本をなすものではない。そもそも君主は、自分一人の知恵で家臣全てを見通すことなどできないのだ。 そもそも、万物にはりょうを測る基準があり、大きさには寸法があり、長さにはすうがあり、重さには分銅があり、軽さには天秤がある。物事の筋がある。とは、物事理である。物事理に沿って判断すれば、間違うことはない。 およそ統治において、法より尊いものはない。法より強かたなものはない。君主の光より重いものはない。君主のけん勢より便べん利なものはない。この四つは、統治の極致である。だから、君主はこれを手放してはならない。 しかし、今の世で統治を語る者たちは、皆言う。「締りをせず、心を一つにして互いに信じがっい、あらそいをやめてゆずがっい、互いに愛しがっうことで治めるのだ」と。これは、上に賢者がおらず、下に愚か者がいないような理想状態だ。このような状態なら、いまだかつて乱れたことはない。しかし、今の世はそうではない。 聖人は、いたずらに古代を手本とせず、不変のルールを盲信しない。今の世の事を論じ、それに基づいてそなえをするのだ。 昔の王の書物を語る者は、皆言う。「しょうは手あつくして信頼できるものにし、ばつは重くして確実なものにせよ」と。これこそ、国を治める要点である。しかし、今の学者たちは、皆、しょうばつが緩やかであることを互いに称賛しあっている。

故に、賢明な君主の国では、書物や文献はなく、法を以て教えとし、昔の王の言葉はなく、役人を以てとする。私的な武ゆうはなく、敵の首を斬ることを以てゆう気とする。 こういうわけで、その領内の民は、皆、その言葉は法にがっ致し、その行動は功績に結びつき、無駄なことは語らない。これこそ、治世の極致である。

定法篇が扱う主題

定法篇法治による組織統治について書かれています。

韓非子は個人の能力や人格に依存する統治を批判し、『法』という客観的なルールと『じゅつ』という人事管理技術を組みがっわせた、再現可能な統治システムの構築を提唱しました。

定法篇の特徴的な教え

定法篇は、申不害しんふがいの『じゅつ』と商鞅の『法』を比較検討し、両者の長所を統がっした理想的な統治モデルを示しています。特に重要なのは、過の理想化された統治を否定し、現実に即した制設計を重視する点です。

じゅつ

能力に応じて官職を授け、実績を評価し、人事けんを掌握する君主の統治技術。個人の資質に依存せず、システムとして人材を管理する方法。

明文化された規則として官府かんぷに掲示され、民衆に信頼される刑ばつと報しょうの体系。属人的判断を排除し、客観的基準で組織を動かす仕組み。

聖人はせずして古をおさめず

優れた統治者は、むやみに古代を理想化せず、現在の状況に応じた制を作る。過の成功体験に囚われない革新的思考。

明主めいしゅの国

賢明な君主が治める国。古い書物や過の聖人の言葉ではなく、法と実務を基準とする近代的な統治体制。

なぜ現代でも重要なのか

現代の企業経営において、カリスマ経営者への依存から脱却し、持続可能な組織システムを構築することが求められる中、韓非子の法治思想は極めて実践的です。

人事評価制度、コンプライアンス体制、業務プロセスの標準化、ガバナンス強化など、属人性を排除した組織運営に直接応用できます。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたの組織が属人的経営から脱却するには?

定法篇の『法と術の統合』を現代企業に応用すると、個人の能力に依存しない持続可能な組織システムの構築となります。韓非子が示した制度設計の原則を、現代の成功企業の実例で学びましょう。

制度による標準化

(法を以て教えと為す)
トヨタ生産方式

作業手順書とカンバン方式により、誰でも同じ品質を実現できる標準化を達成。暗黙知を形式知に変換し、属人性を徹底排除

実践のコツ

あなたの組織で、特定の人にしかできない業務は何か?それをどう標準化するか?

人事評価の客観化

(名を循いて其の実を責む)
Google OKR

目標と成果指標を明確化し、達成度を数値で評価。上司の好き嫌いではなく、客観的データに基づく公正な人事評価を実現

実践のコツ

現在の評価制度は本当に客観的か?感情や人間関係が影響していないか?

権限の明確化

(殺生の柄を操る)
アマゾンの2ピザルール

チームを小規模化し、各チームに明確な権限と責任を付与。意思決定の速度と責任の明確化を両立

実践のコツ

意思決定プロセスは明確か?責任の所在が曖昧になっていないか?

実務重視の教育

(吏を以て師と為す)
GEクロトンビル

実務経験豊富な社内講師による実践的教育。理論ではなく、実際の事例とノウハウを重視した人材育成

実践のコツ

教育研修は実務に直結しているか?理想論に偏っていないか?

実践チェックリスト

この章の核となる思想を掘り下げる

明主めいしゅの国は、書簡しょかんの文無く、法を以て教えと為し、先王の語無く、を以てと為す

古典の文脈

この言葉は定法篇の結論部分に置かれた、韓非子の統治思想の集大成です。『明主』とは賢明な指導者、『書簡の文』とは古い書物や理想論、『先王の語』とは過去の聖人の教え、『吏』とは実務を担う官吏を指します。つまり、優れた組織は理想論や過去の成功事例に頼らず、現実的な法規と実務経験を重視するという、極めて現代的な組織論を2300年前に提示していたのです。

現代的意義

現代のビジネス環境において、この教えは『ベストプラクティスの盲信からの脱却』を示唆しています。多くの企業が有名企業の事例や経営書の理論を無批判に導入して失敗します。重要なのは、自社の現実に即した制度設計と、現場の実務知識の体系化です。理想や理論ではなく、実際に機能するシステムこそが組織を強くします。

実践的価値

明日からあなたができること:まず、あなたの部署で『この人にしか分からない』業務を3つリストアップしてください。次に、その業務の手順書やマニュアルを作成します。そして、新人でも理解できるレベルまで具体化・標準化します。これが『法を以て教えと為す』の第一歩です。また、外部セミナーより社内の実務エキスパートから学ぶ機会を増やすことで、『吏を以て師と為す』を実践できます。

歴史上の人物による実践例

『法を以て教えと為す』という定法篇の理念を、日本史上最も完璧に実践したのは、江戸幕府を開いた徳川家康でした。戦国の混乱を収束させ、個人の武勇ではなくシステムで国を治める、日本初の本格的な法治国家を建設した物語です。

徳川家康 - 武家諸法度と幕藩体制の確立

徳川家康の天才性は、定法篇の理念を完璧に実践したことにあります。

『法を以て教えと為す』として武家諸法・禁あた並公家諸法を制定し、大名から天皇まで全ての行動を法で規定。を以てと為す』として老あた・若年寄などの実務官僚制を確立し、個人の資質に依存しない統治システムを構築。

さらにじゅつ』の面では、参勤交代で大名の経済力を削ぎ、改易・転封で人事けんを掌握。『法』の面では、五人組制や寺請制で民衆管理を徹底。

最も革新的だったのは、自身の神格化(東照大けん現)により、『人』ではなく『制』にけんを持たせたこと。これにより、およ庸な将軍でも体制が維持される、世界史上稀に見る260年の長安定政けんを実現しました。