韓非子

説難せつなん

説得の本質は、相手の心理を読み取り、その人が真に求めているものを理解することにある。同じ提案でも、相手の感情状態や利害関係によって受け入れられるかが決まる。権力者の「逆鱗」に触れることなく、巧みに提案を通す技術が成功の鍵となる。
最重要格言
説の難きは、説く所の心を知り、吾が説を以て之にき所に在り

説得の難しさは、相手の心の内を知り、自分の提案をそれに適切に合わせることにある。

凡そ説の難きは、吾が知の以て之を説くに足る所に非ず、之を debating するに難きに非ず。凡そ説の難きは、説く所の心を知り、吾が説を以て之にき所に在り。

説く所、高名を欲すれば、則ち大功を以て之を説かば、必ず我を以て下と為し、必ず之を遂げん。説く所、大功を欲すれば、則ち高名を以て之を説かば、必ず我を以て心無く、事を知らざる者と為し、必ず之を用いざらん。説く所、陰かに功を為さんと欲し、陽かには名を為さんと欲すれば、則ち之に名に於いて挙げて、陰かに功に於いて成さば、説く者、陽かに之を説くこと有らば、則ち身疏んぜうとんぜられ、陰かに之を説くこと有らば、則ち事敗れて身危うし。此れ説く者、知らざるからざるなり。

夫れ事には、其の功を同じくして、其の主を異にする者有り。昔者、鄭の武公、胡を伐たんと欲し、故に先ず其の女を以て之にめあわす。因りて群臣に問いていわく、「吾、兵を用いんと欲す。いずれか伐つき」と。関其思かんきし対えていわく、「胡、伐つし」と。君、之を斬りていわく、「胡は兄弟の国なり。子、之を伐てといわうは何ぞや」と。胡君之を聞き、鄭を以て親と為し、鄭に対する備えを為さず。鄭人、胡を襲い、之を取る。宋に富賈ふこ有り。之がかき、雨ふりて壊る。其の子いわく、「築かずんば、必ず盗有らん」と。其の隣人之父も亦之を云う。暮れて果たして大いに財を亡う。其の家、其の子をけいとすれども、其の隣人之父を疑う。此の二人の説く所の者は、其の智は同じきも、しかも智有る者は罪せられ、疑わるる者は、其れ愛憎あいぞうの質、厚薄こうはくの異なり。故に智、知にたるも、疑わるる者は、説の聴かれざる所以なり。

故に、鄭の荘公そうこうは、段を舎きて以て之が欲しいままならしめ、之を奪わんと欲すれば、則ち之に与う。君臣くんしんの間に、しかも之を疑う莫きは、説の難き所以なり。此れ智のたる所、しかも身、死して功、滅ぶ。此れ説の難き所以なり。

昔者、弥子瑕びしかえい君に愛せらる。えいの国法に、君の車を窃みて駕する者は、罪、げつせらる。弥子瑕びしかの母、病む。人有り、夜、弥子瑕びしかに之を告ぐ。弥子瑕びしかいつりて君の車に駕して出づ。君、之を聞きて賢としていわく、「孝なるかな。母の為の故に、げつ罪を忘る」と。君と与に果園に遊ぶ。桃を食いて甘し。己に尽くさずして、君に半ばを献ず。君いわく、「我を愛するかな。其の口を忘れて以て我にくらわす」と。弥子瑕びしかの、色衰え、愛弛むに及び、罪を君に得る。君いわく、「れ嘗ていつりて我が車に駕し、又嘗て我に余桃よとうくらわせたり」と。故に、弥子瑕びしかの行は、始めと変ぜざるも、しかも前に賢とせられ、後に罪せらるる所以の者は、愛憎あいぞうの変、甚だしきなり。故に、主に愛有らば、則ち智、りて親ますます厚く、主に憎有らば、則ち智、たらずして罪ますます忘れらる。故に、諫説の士は、其の愛憎あいぞうを察せずして以て之を説くからざるなり。

夫れ竜の虫たるや、みだるれば則ちなれく、乗りて之に騎すし。然れども其の喉下こうかに逆鱗の径尺けいしゃくなる者有り。若し人有りて之にるる者は、必ず人を殺す。人主も亦逆鱗有り。説く者、能く人主の逆鱗にるること無くんば、則ち庶幾しょきからん。

およそ、君主を説得することの難しさは、私の知識が説得するのに十分でないとか、弁舌の巧みさが足りないという点にあるのではない。およそ説得の難しさとは、説得する相手の心の内を知り、私の主張をそれにうまく合わせることができるかどうかにかかっているのである。

説得する相手が「名声」を欲しているのに、こちらが「大きな功績や利益」の話をすれば、相手は必ず私のことを品性が低い人間だと見なし、決して私の意見を受け入れないだろう。逆に相手が「大きな功績や利益」を欲しているのに、こちらが「高い名声」の話をすれば、相手は必ず私のことを世間知らずで実務能力のない人間だと見なし、決して私の意見を用いないだろう。また、説得する相手が、内心では「功績」を欲しがりながら、表向きは「名声」を欲しているという場合はどうか。こちらが表向きの名声の話を持ち出して、内心の功績をあげさせてあげようとしても、説得する側が表向きの話しかしなければ、君主から疎んじられてしまう。かといって、内心の功績の話をあからさまにすれば、君主は計画が漏れることを恐れて、説得者の身を危険にさらすだろう。これらは説得する者が知っておかねばならないことだ。

そもそも物事には、同じことをしても、誰が言ったかによって評価が全く異なることがある。昔、鄭の武公が胡の国を攻めようと思い、まず自分の娘を胡の君主に嫁がせた。そして群臣に「私は軍事行動を起こしたいが、どこを討つべきか」と尋ねた。関其思かんきし(かんきし)が「胡を討つべきです」と答えると、武公は彼を斬り捨てて言った。「胡は兄弟国だ。それを討てとは何事だ」。胡の君主はこの話を聞き、鄭を身内だと安心して、鄭に対する備えをしなくなった。鄭の軍は胡を奇襲し、これを滅ぼした。また、宋の国にある富豪がいた。その家の土塀が雨で崩れた。息子が「早く修理しないと、必ず泥棒に入られます」と言った。隣家の父親も同じことを言った。その夜、案の定、大量の財産が盗まれた。その家の人々は、息子を知恵者だと褒めたが、隣家の父親のことは疑った。この二人が言ったことは、どちらも同じように的確だったが、一方は罪を着せられ、もう一方は疑われた。これは、愛情や憎しみといった人間関係の濃淡が異なるからである。このように、たとえ知恵が的を射ていても、疑われている者の言葉は聞き入れられないのである。

だから、鄭の荘公そうこうが(弟の)段をわざと放置して好き勝手させ、最終的に彼を討とうとした時、家臣たちは(荘公そうこうの真意を疑うことなく)、誰もが「君主は弟を愛している」と思い込んだ。君臣くんしんの間であっても、これほどまでに真意を疑われないというのは、説得がいかに難しいかを示している。こうして、(荘公そうこうの真意を見抜けなかった家臣たちは)たとえ的確な知恵を持っていたとしても、その身は死に、功績は滅びてしまう。これも説得の難しさを示す例である。

昔、弥子瑕びしか(びしか)という人物が、えいの君主に寵愛されていた。えいの国の法律では、君主の車を盗んで乗った者は、足切りの刑に処されることになっていた。ある時、弥子瑕びしかの母が病気になった。ある人が夜中にそのことを弥子瑕びしかに知らせた。弥子瑕びしかは君主の命令だと偽って君主の車に乗り、駆け付けた。君主はこの話を聞いて、彼を賢いと褒めて言った。「なんと親孝行なことか。母親のためなら足切りの刑さえ忘れるとは」。またある時、弥-子瑕は君主と一緒に果樹園で遊んだ。桃を食べると大変甘かったので、全部は食べずに、その半分を君主に献上した。君主は言った。「なんと私を愛してくれていることか。自分が食べているのも忘れ、私に食べさせてくれるとは」。ところが、弥子瑕びしかの容色が衰え、君主の寵愛が薄れると、彼は君主から罪を問われることになった。君主は言った。「こいつは昔、私の命令だと偽って車に乗り、またある時は、私に食べかけの桃を食わせた奴だ」。弥子瑕びしかの行動は、最初と何も変わっていないのに、以前は賢いと褒められ、後には罪に問われた。その理由は、君主の愛憎あいぞうの変化が激しいからに他ならない。このように、君主の寵愛があれば、知恵は的を射ていると見なされてますます親密になり、君主の憎しみがあれば、知恵は的外れだと見なされて罪に問われ、その過去の功績さえ忘れ去られる。だから、君主を諫め説得しようとする者は、君主の愛憎あいぞうのありさまをよく観察せずに説得してはならないのである。

そもそも竜という生き物は、飼いならせば、人に慣れて背中に乗ることもできる。しかし、その喉の下には、一尺ほどの逆さに生えた鱗(逆鱗)がある。もし人がこれに触れようものなら、竜は必ずその人を殺す。君主にもまた、この逆鱗がある。説得する者が、君主の逆鱗に触れることがなければ、君主の説得は、まず成功に近いと言えるだろう。

説難篇が扱う主題

説難篇説得の心理学と戦略的コミュニケーションについて書かれています。

韓非子は「説得の本質は、論理や正しさではなく、相手の心理状態と利害関係を正確に把握し、それに合わせた提案をすることにある」という、現代のステークホルダーマネジメントに通じる洞察を示しました。

説難篇の特徴的な教え

説難せつなん篇は、権力者への提案が失敗する根本原因を分析し、「相手の真の欲求」「愛憎あいぞうの影響」「逆鱗の回避」という3つの観点から、説得を成功させる実践的な方法論を展開しています。

説く所の心を知る

相手が表面的に求めているものと、内心で真に欲しているものを見極める洞察力。名声を求める人に利益の話をしても響かない。

愛憎あいぞうの変

同じ行動や提案でも、相手があなたに好意を持つか否かで評価が180度変わる。関係性が提案の成否を決定する。

逆鱗

権力者が絶対に触れられたくない心理的地雷。これに触れると、どんなに正しい提案でも即座に拒絶され、提案者は危険にさらされる。

愛憎あいぞうの察知

相手の価値観・利害・感情状態を把握し、同時に自分の立場・関係性・影響力を正確に認識すること。

なぜ現代でも重要なのか

現代のビジネスにおいて、「上司への提案」「クライアントへの営業」「投資家へのピッチ」など、説得力が成功を左右する場面は無数にあります。この章は、相手の心理を科学的に分析し、戦略的にアプローチする方法を教えています。

上司への企画提案、顧客への営業活動、社内での根回し、ステークホルダー管理、交渉術、プレゼンテーション戦略において、相手の真のニーズを把握し、地雷を避けながら効果的に説得する技術として応用できます。

この章の核となる思想を掘り下げる

説の難きは、説く所の心を知り、吾が説を以て之にき所に在り

古典の文脈

この言葉は説難篇の冒頭に置かれた、説得の本質を突いた格言です。韓非子は、説得の失敗は知識不足や弁舌の拙さではなく、相手の心理を理解できていないことにあると喝破しました。「説く所の心」とは、相手が表面的に言っていることではなく、その奥にある真の欲求や価値観のこと。この洞察は、2500年前の中国で書かれたとは思えないほど、現代の行動経済学や心理学の知見と一致しています。

現代的意義

現代社会において、この教えは「共感型リーダーシップ」と「戦略的コミュニケーション」の重要性を示しています。データや論理だけでは人は動きません。相手が何を大切にし、何を恐れ、何を望んでいるのかを理解し、その文脈で提案を組み立てる。これは単なるテクニックではなく、相手への深い理解と敬意に基づく、真のコミュニケーション能力です。

実践的価値

明日からあなたができること:重要な提案をする前に「相手分析シート」を作成してください。「表向きの目標」「真の欲求」「現在の感情状態」「触れてはいけない話題」「過去の成功体験」を書き出す。そして提案内容を、相手の真の欲求に応える形に再構成する。この準備が、提案の成功率を劇的に向上させます。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたが上司に重要な改革案を提案するなら?

説難篇の「相手の心を知る」を現代のビジネスシーンに応用すると、上司や経営陣への提案を成功させる心理戦略となります。韓非子が説いた説得の4つのレベルを、実際の企業事例で学びましょう。

真の欲求把握

(説く所の心を知る)
Microsoft サティア・ナデラのクラウド転換

従来のWindowsライセンス収益に固執する取締役会に対し、「成長」と「イノベーション」という真の欲求に訴えてAzure投資を実現

実践のコツ

上司が口にする要求の背後にある、真の評価基準は何か?

関係性構築

(愛憎の変)
トヨタ生産方式の導入

大野耐一は現場との信頼関係を築いてから改革を提案。同じ提案でも、信頼される人からなら受け入れられる

実践のコツ

提案の前に、相手との信頼関係は十分に構築されているか?

地雷回避

(逆鱗に触れず)
Intel アンディ・グローブのメモリ事業撤退

創業事業への愛着という「逆鱗」を避け、「もし新CEOなら何をするか」という仮定法で議論を進めた

実践のコツ

上司のプライドや過去の決定を否定していないか?

タイミング選択

(時を得る)
Slack スチュワート・バターフィールドのピボット

ゲーム事業失敗の直後ではなく、内部ツールの成功データが揃ってから投資家に事業転換を提案

実践のコツ

今が提案のベストタイミングか?待つべき理由はないか?

実践チェックリスト

歴史上の人物による実践例

「説く所の心を知る」という説難篇の教えは、相手の真の欲求を見抜き、巧みな交渉で歴史を変えた戦略家たちによって実証されています。特に、複雑な利害関係の中で、それぞれの「逆鱗」を避けながら合意を形成した天才的な説得術の物語です。

黒田官兵衛 - 中国大返しの進言と秀吉への臣従

黒田官兵えいの天才性は、説難せつなん篇の教えを完璧に実践したことにあります。本能寺の変の報を受けた際、主君・秀吉の「天下への野心」という真の欲求を瞬時に見抜き、「今こそ天下を取る好機」と進言。しかし同時に、秀吉の「逆鱗」である猜疑心に触れないよう、自らは常に二番手の立場を保ち続けました。さらに、各大名への説得でも、それぞれの利害と恐れを的確に把握。「信長の仇討ち」という大義名分で道義を重んじる者を説き、「領地安堵」で実利を求める者を説き、「秀吉の実力」で力を恐れる者を説く。相手によって説得の切り口を変える「説く所の心を知る」の実践により、短期間で反秀吉勢力を切り崩し、天下統一への道筋をつけました。