韓非子

顕学けんがく

理想論や権威に頼る統治から、実績と法に基づく統治への転換を説く。功績なき美辞麗句を退け、明確な評価基準による組織運営を提唱。時代の変化に応じた柔軟な対応と、システマティックな管理手法の重要性を示す。
最重要格言
其の実際に拠りて其の言を聴けば、則ち其の事は、為す可きなり

実際の状況に基づいてその言葉を聞けば、その計画は実行可能となる。美辞麗句ではなく、実績と事実に基づいた評価が組織を強くする。

世の顕学けんがくは儒・墨なり。儒の最も盛んなる者は孔丘。墨の最も盛んなる者は墨翟ぼくてき。孔墨の後、儒は八と為り、墨は三と為る。取る所、与うる所、互いに不同、之をそむく。皆な自ら真の孔・墨なりと謂う。孔・墨、復た生ず可からず。いずを以て後世に正さん。 孔子・墨子、倶にぎょう・舜を道い、しかも取る所、与うる所、異なり。皆な自ら真のぎょう・舜なりと謂う。ぎょう・舜、復た生ず可からず。いずを以て後世に正さん。 殷・周の七百余歳、・夏の二千余歳、・夏の前をつまびらかにすること能わず。しかるに乃ち今の学者は、皆な上りて三代の前に及ぶ。いわく、「遠きは当に然るべし、近きは不然なること有り」と。此れ人情を度らずして、しいを言いて以て愚を惑わす者なり。拠り無くして以て之を断ずるは、愚なり。其の愚なるに説を聴くは、惑なり。然れば則ち虚を以て虚を定め、其の拠り無きを知る者は、則ち人有りてぎょう・舜の道を明らむ可からず。 今の学者、先王を道いて以てその言を弁ず。必ずいわく、「先王は我をと為す」と。詭辞きじを為し以て聖人の言に証とし、虚説を設け以て以て其の私学を飾る。れ明君の患うる所なり。人臣の言は、必ず其の功有り、必ず其の用有るを以て之を賞す。故に其の言の功無くして美なる者は、浮説なり。其の身の能力無くして治むる者は、乱功らんこうなり。人主、浮説を悪み、乱功らんこうを賤しむ。 故に、其の言の当たる者は、必ずしも其の智有らず。言は物の尽くさざる所以の者なり。然れども主の用うる所は、其の言の当たる者を以てす。しかして其の智を以て之を賞せざるを得ず。故に世の治まらざる所以の者は、賞を用いるに於いて智多きなり。

明主の道に非ざるは、其の智を賞し、其の功を賞せざるなり。又、其の行いを貴び、其の禁を貴ばざるなり。今の世の学者は、皆な其の功を舎てて其の智を説き、其の禁を舎てて其の行いを道う。を以て人主、之を貴ぶ。れ世の所以の乱るるなり。 夫れ耕す者は、其の巧なるを以てすれども、其の力を尽くすに如かず。其の智、巧なるも、深耕して易耨せざれば、其の収、百畝にして一人の食に足らず。今、学者、之を説くに、誉れ無くして、世の之を顕わす所以の者は、其の言の辯にして、其の美なるを以てなり。其の徳行の高さに非ざるなり。 故に、明主の道は、必ず功有るの士を用い、其の浮説の民を去る。故に其の国に功無きに禄する者無く、官に能無きに御むる者無し。 の故に、人臣の言は、必ず事を以て之を課す。事を以て課すれば、則ち臣下、其の主を欺く能わず。其の行いは、必ず度を以て之を揆る。度を以て揆れば、則ち民、其の君をうこと無し。

世に愚かなるも、梁の君と智を易えんと欲せざる者無し。世に拙なるも、工倕こうすいと巧を易えんと欲せざる者無し。世に暴なるも、そう・史と行いを易えんと欲せざる者無し。此の三者は、人の説く所にして、行う所はに非ず。 故に其の実際に拠りて其の言を聴けば、則ち其の事は、為す可きなり。其の功に拠りて其の事を課せば、則ち其の賞、欲せざるを得ず。

故に、今の学者、皆な古を道いて以て今の世を害し、虚を飾って以て実を乱し、人主をして聴きて之を貴ばしむ。を以て、其の身は、耕さずして食らい、織らずして衣、其の国に功無くして尊顕し、其の官に任無くして爵禄高し。此れ、国の、民の姦なり。人主、之を説びて之を貴ぶ。れ、国の所以の乱るるなり。

楚に株を守る者有り。田中に株有り。兎、走りて株に触れ、頸を折りて死す。因りて其の耒をてて株を守り、復た兎を得んことをこいねがう。兎、復た得可からずして、身は宋国の笑いと為る。今、先王の政を以て、今の世の民を治めんと欲するは、皆な株を守る類なり。 古は、丈夫は耕さず、草木の実は食らうに足り。婦人は織らず、禽獣の皮は衣るに足り。力を労せずして養い足り、民、少なくして財、余り有り。故に民、争わず。の故に、厚賞せず、重罰せずして、民、自ら治まる。今、人、五子有るも多しと為さず。子、又、五子有り。祖父、未だ死せざるに、孫、二十五人有り。を以て、人、多くして財、寡なく、力を労して養い薄し。故に民、争う。争うといえども、賞厚く罰重きも、猶お乱を免れず。

ぎょうの天下に王たるや、茅茨ぼうしらず、采椽さいてんらず。糲粢れいしの食、藜藿れいかくの羹。冬日は麑裘げいきゅう、夏日は葛衣かつい。今の門大夫の衣食も、猶お此れより薄からず。禹の天下に王たるや、身、執りて耒耜、民に先んじ、股にまめ無く、脛に毛無し。今の僕隷の労も、猶お此れより苦しからず。此れを以て之を言わば、古の天子を譲る者は、監門の養いを去り、胥靡しょびの労をつるがごとし。故に天下を人に伝うるも、之を愛するに足らず。今の県の令、其の身死すれば、子孫、累世、駕す。此れ、人の所以の之を重んずるなり。 故に人の情は、其の薄きを譲るを欲し、其の厚きを争う。の故に、古の天子を譲るは、今の県令を去るに非ず、百金をつるに非ず。

聖人は期せずして古をおさめず、常を法とせず。今の世の事を論じ、因りて之が備えを為す。宋に農夫有り。其の田中に株有り。農夫、耕す。株、其の鋤に中たる。農夫、怒りて之を去る。然れども株、以て其の耕すを害せざるなり。株、以て之を去る可きは、其の耕すを害する所以なり。今の学者、其の先王の政を以て、今の世を治めんと欲するは、亦、猶お此の株のごときか。 故に、明主の国は、書簡の文無く、法を以て教えと為す。先王の語無く、吏を以て師と為す。私剣の勇無く、斬首を以て勇と為す。の故に、其の境内之民、皆な言は法に合し、動は功に中り、語は事を去る。此れ、治の至りなり。

今、境内之民は、皆な言は弁にして、書は古、業は私、威は衆に在り。上、此の四者をとせば、しかも国を以て治まらんと欲するは、此れ、亦、難きかな。国に賢良の民無く、其の吏之上に在る者は、皆な其の好む所の者なり。然れども、其の上を治むる者は、法なり。 今、学者、法をおさめずして、其の私善を以てし、其の主を非る。上、を以て之を尊ぶ。れ、治を去りて乱を為す所以なり。

墨者の儒者を非るや、儒者の墨者を非るや、各々自ら其のと為す所にとし、其の非と為す所に非とす。今の主、皆な之をとせば、賞罰、何を以て定まらん。故に、儒・墨の異なるは、猶お左右の異なるがごとし。人主、之を両つながら用う可からず。之を両つながら用いんと欲するは、乱の本なり。

臣、聞く、ぎょうは仁聖なりと。然れども三苗さんびょうは服さず。禹は名義なりと。然れども有扈ゆうこは畔く。此れ、仁義の不足、説教の不可なるなり。今、学者、皆ないわく、「上は必ず仁義の理を尽くし、刑罰の道を去るべし」と。、以て治を得んと欲するは、則ちぎょう・禹の智を過ぐる者なり。

世の中で目立つ学問は、儒家と墨家である。儒家の最も代表的な人物は孔丘。墨家の最も代表的な人物は墨翟ぼくてきである。孔子と墨子の死後、儒家は八派に、墨家は三派に分かれた。それぞれの学派が取り上げる教えや認める教えは、互いに異なり、食い違っている。彼らは皆、自分こそが真の孔子・墨子の後継者だと主張している。しかし、孔子や墨子が生き返ることはない。誰が後世において、どれが正しいかを判断できるというのか。

孔子と墨子は、共に古代の聖天子であるぎょう・舜(ともに中国神話に登場する君主)を模範としながら、その教えとして取り上げる点、認める点が異なっている。そして、どちらも自分こそが真のぎょう・舜の道を伝えていると主張する。しかし、ぎょう・舜が生き返ることはない。誰が後世において、どれが正しいかを判断できるというのか。 殷・周の時代は七百年余り続き、・夏の時代は二千年余り続いた。・夏の時代より前のことは、もはやつまびらかにすることはできない。それなのに、今の学者たちは、皆こぞって三代(夏・殷・周)よりも前の時代にまで遡って論じている。彼らは言う、「遠い昔のことは、きっとこうであったに違いない。近い時代のことは、そうでないこともある」と。これは人の情理を無視した、でたらめを言って愚かな者を惑わす者たちだ。何の根拠もなく物事を断定するのは、愚かである。その愚かな者の説を信じるのは、惑わされているのである。そうであれば、虚構によって虚構を定めようとするようなものであり、根拠がないことを知る者にとっては、ぎょう・舜の道を明らかにできる者などいないことがわかる。

今の学者たちは、昔の王を語っては、自説の正しさを弁じ立てる。必ず「昔の王は、私の説を正しいとしただろう」と言う。偽りの言葉を並べ立てて聖人の言葉を証拠とし、架空の説を設けては自分の学説を飾り立てる。これこそが、賢明な君主が憂慮することである。家臣の言葉は、必ずその功績の有無、その実用性の有無によって賞賛されるべきだ。したがって、その言葉が功績もなくただ美しいだけであるなら、それは浮ついた説(浮説)である。その人物に能力もなく国を治めようとするのは、国を乱す行い(乱功らんこう)である。君主たるもの、浮ついた説を憎み、国を乱す行いを軽蔑すべきである。 だから、その言葉が的を射ていたとしても、必ずしもその人物に知恵があるとは限らない。言葉というものは、物事の全てを言い尽くせるものではないからだ。しかし、君主が用いるのは、その言葉が的を射ている者である。そして、その知恵を賞賛せざるを得なくなる。これが、世の中が治まらない原因であり、褒賞を与える際に知恵ばかりが重視されるからである。

賢明な君主の道とは違うのは、その知恵を賞賛し、その功績を賞賛しないことだ。また、その私的な行いを尊び、国家の禁令を尊ばないことだ。今の世の学者たちは、皆、功績をそっちのけにして知恵を説き、禁令をそっちのけにして私的な行いを語る。だからこそ君主は、これを尊ぶ。これこそが、世の中が乱れる原因なのだ。

農夫は、その技術もさることながら、その力を尽くすことには及ばない。その知恵や技術が優れていても、深く耕し、丁寧に草取りをしなければ、その収穫は百畝あっても一人の食い扶持にも足りない。今、学者たちは、功績もないのに、世間から注目される。その理由は、彼らの言葉が巧みで、美しいからである。その徳行が高いからではない。 だから、賢明な君主の道とは、必ず功績のある士を用い、浮ついた説を述べる民を退けることである。したがって、その国には功績もないのに俸給をもらう者はおらず、役所には能力もないのに職務にあたる者はいない。 こういうわけで、家臣の言葉は、必ず実績によってその価値を評価する。実績によって評価すれば、臣下は君主を欺くことはできない。その行いは、必ず法度によってこれを推し量る。法度によって推し量れば、民は君主を騙すことはない。

世の中にどんな愚か者がいても、梁の君主と知恵を取り替えたいと思わない者はいない。世の中にどんな不器用な者がいても、名工の工倕こうすい(古代中国の伝説上の熟練した職人)と技術を取り替えたいと思わない者はいない。世の中にどんな乱暴者がいても、善行で知られる曽参そうしん(春秋時代の思想家)や史鰌しゆう(春秋時代の衛の忠臣)と行いを取り替えたいと思わない者はいない。この三つの例は、人々が口では褒め称えるが、実際に行うことは別だということである。 だから、実際の状況に基づいてその言葉を聞けば、その計画は実行可能となる。その功績に基づいてその仕事を評価すれば、その褒賞は(誰もが)欲しがらずにはいられない。

したがって、今の学者たちは、皆、古代を語っては今の世の害となり、虚構を飾っては現実を乱し、君主を言いくるめてはこれを尊ばせる。このため、彼らは、耕さずして食らい、織らずして衣服をまとい、国に功績もないのに尊敬され、役職の責任もないのに爵位や俸給が高い。これらは、国を蝕む害虫であり、民の間の悪人である。君主がこれを喜んで尊ぶ。これこそ、国が乱れる原因なのだ。

楚の国に、木の切り株を守る男がいた。(彼の)田んの中に切り株があった。兎が走ってきて、株にぶつかり、首を折って死んだ。男はそこで鋤を捨てて、株を守り、再び兎を得ようと願った。兎は二度と得られず、男は宋の国の笑い者となった。今、昔の王の政治をもって、今の世の民を治めようとするのは、皆、この切り株を守る男の類である。 昔は、男は耕さずとも、草木の実で十分に食えた。女は織らずとも、鳥獣の皮で十分に衣服となった。力を尽くさずとも生活は満ち足り、民は少なくて財産は余っていた。だから民は争わなかった。このため、手厚い褒賞も、重い刑罰もせずとも、民は自然と治まっていた。今、人は五人の子がいても多いとは思わない。その子がまた五人の子を持つ。祖父がまだ死なないうちに、孫は二十五人にもなる。このため、人は多くて財産は少なく、必死に働いても生活は苦しい。だから民は争う。争うので、褒賞を手厚くし、刑罰を重くしても、なお乱れから免れることはできない。

ぎょうが天下の王であった時、茅葺かやぶきの屋根は切り揃えず、垂木たるきは削らなかった。玄米の飯を食べ、あがさの汁物をすすっていた。冬は子鹿の皮衣を、夏は葛の衣を着ていた。今の門番の衣食でさえ、これより粗末ではない。禹(中国古代の伝説的な王で、夏朝の初代王)が天下の王であった時、自ら鋤を持って民の先に立ち、腿に肉刺しはなく、脛に毛はなかった。今の奴隷の労苦でさえ、これよりひどくはない。こうしてみると、古代の天子の位を譲るというのは、門番の生活を捨て、奴隷の労苦から解放されるようなものだ。だから天下を人に譲っても、それを惜しむほどのものではなかった。今の県の長官は、その身が死んでも、子孫は代々馬車に乗れるほどの富を築く。これこそ、人々が官職を重んじる理由である。 だから人の情とは、乏しいものは譲り合い、豊かなものは争うものだ。こういうわけで、昔の天子の位を譲ることは、今の県の長官の職を辞めることにも、百金を捨てることにも及ばないのである。

聖人は、いたずらに古代を手本とせず、不変のルールを盲信しない。今の世の事を論じ、それに基づいて備えをするのだ。宋に農夫がいた。その田の中に切り株があった。農夫が耕していると、株が鋤に当たった。農夫は怒って株を取り除こうとした。しかし、株は別に耕作の邪魔にはなっていなかった。株を取り除くべきなのは、それが耕作の邪魔になる場合である。今の学者たちが、昔の王の政治をもって、今の世を治めようとするのは、またこの切り株のようなものではないか。 故に、賢明な君主の国では、書物や文献はなく、法を以て教えとする。昔の王の言葉はなく、役人を以て師とする。私的な武勇はなく、敵の首を斬ることを以て勇気とする。こういうわけで、その領内の民は、皆、その言葉は法に合致し、その行動は功績に結びつき、無駄なことは語らない。これこそ、治世の極致である。

今、領内の民は、皆、口は達者で、書物は古人のものを読み、生業は私利私欲のため、その威勢は徒党を組むことにある。君主がこの四つを正しいとすれば、国が治まることを望むのは、これもまた難しいことだ。国に善良な民がおらず、役人の上に立つ者は、皆、君主が好む者たちだ。しかし、その君主を治めるものは、法なのである。 今、学者たちは、法を修めずに、自分の私的な善行を以て、君主を批判する。君主がこれを以て学者を尊敬する。これこそ、治世から遠ざかり、乱世を招く原因である。

墨家が儒家を批判し、儒家が墨家を批判し、それぞれが自分たちを正しいとし、相手を間違っているとする。今の君主が、皆これを正しいとすれば、賞罰は何を基準に定めればよいのか。そもそも、儒家と墨家の違いは、右手と左手の違いのようなものである。君主は、両方を同時に用いることはできない。両方を同時に用いようとすれば、それは乱の元である。

私が聞くところによると、ぎょうは仁愛の聖人であった。しかし、三苗さんびょうの民(中国に伝わる伝説上の人種)は従わなかった。禹は名君で義に厚かった。しかし、有扈ゆうこの氏(中国・夏王朝初期に存在した部族)は背いた。これは、仁義だけでは不十分であり、説教だけでは駄目だということだ。今、学者たちは皆言う、「君主は必ず仁義の理を尽くし、刑罰の道をやめるべきだ」と。これによって治世を得ようと望むのは、ぎょう・禹の知恵を超える者でなければ無理であろう。

現代に活かすための「原理原則」

顕学篇の本質は、『権威や理想論からの脱却と、実績主義への転換』を説くことにあります。韓非子は、儒家や墨家といった当時の有名学派が、証明不可能な古代の理想を語り、実際の功績なしに評価されることを鋭く批判します。そして、言葉の美しさではなく実際の成果で評価し、時代の変化に応じて柔軟に対応することの重要性を説いています。

現代のビジネス環境において、私たちは常に『理論と実践』『理想と現実』のギャップに直面します。韓非子が2300年前に提示したこの問題意識は、データドリブンな意思決定、KPIによる評価、アジャイルな組織運営といった現代経営の根幹と驚くほど共鳴します。権威や前例に頼らず、実績と合理性に基づいて判断する ― この普遍的な原則を探究しましょう。

実績主義の徹底

言葉の巧みさや理論の美しさではなく、実際の成果と功績によって人材を評価する。これにより、組織内の実力者が正当に評価され、パフォーマンスの向上につながる。

時代適応の柔軟性

『切り株を守る愚か者』の寓話が示すように、過去の成功体験や前例にとらわれず、現在の状況に最適な方法を選択する。環境の変化を認識し、それに応じた戦略を採用する。

法とシステムによる統治

属人的な判断や感情的な評価ではなく、明確な基準と法則によって組織を運営する。これにより、公平性と予測可能性が確保され、組織の安定性が向上する。

根拠なき権威の否定

証明不可能な理想論や、検証できない過去の事例に頼ることを拒否する。現実のデータと検証可能な事実に基づいて意思決定を行う。

この章の核となる思想を掘り下げる

其の実際に拠りて其の言を聴けば、則ち其の事は、為す可きなり

古典の文脈

この格言は顕学篇の核心として位置づけられた、実績主義による組織運営の根本原理を示した韓非子の代表的な教えです。「其の実際に拠りて」とは理論や理想ではなく現実の成果に基づくことを、「其の言を聴く」とはその人の言葉を評価することを意味します。韓非子は、美辞麗句に惑わされず、検証可能な実績によって人材を評価し政策を決定することで組織の実力を最大化できると主張し、これが法家思想の核心となる「実証主義的アプローチ」です。

現代的意義

現代のビジネス環境において、この教えは「データドリブン経営」と「成果主義人事」の理論的基盤を提供しています。プレゼンテーションが上手い、理論に詳しい、学歴が高いといった表面的な要素ではなく、実際に売上を上げる、コストを削減する、顧客満足度を向上させるといった具体的な成果で評価する。これにより、真に実力のある人材が適切に処遇され、組織全体のパフォーマンスが向上します。韓非子の思想は、現代の「OKR(目標と主要結果)」や「KPI管理」の思想的原点でもあります。

実践的価値

明日からあなたができることは「実績ベース評価システム」の構築です。チームメンバーの評価を行う際、「何を言ったか」ではなく「何を成し遂げたか」に焦点を当てる。定性的な評価項目を可能な限り定量化し、客観的な指標で判断する仕組みを作る。また、自分自身についても、「忙しかった」「頑張った」という主観的な評価ではなく、「売上○○円増加」「コスト○○%削減」といった具体的な成果で自己評価する習慣をつけましょう。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたが組織で実績主義を徹底したい経営者だったら?

韓非子の「実績と事実に基づく評価」という顕学篇の教えを現代ビジネスに応用すると、権威や美辞麗句に惑わされない、データドリブンな組織運営の実現となります。韓非子が説いた4つの実績主義原理を、現代企業の成功事例で学びましょう。

評価制度の刷新

(其の実際に拠りて其の言を聴く)
GoogleのOKR制度:野心的な目標設定よりも、測定可能な成果を重視

プレゼンテーション能力や企画書の完成度ではなく、実際にどれだけの価値を生み出したかを数値化して評価。営業なら売上、開発なら品質指標、マーケティングならROIなど、部門ごとに明確なKPIを設定し、それに基づいて昇進・報酬を決定する。

実践のコツ

あなたの組織では、『やっている感』と『実際の成果』のどちらが評価されていますか?

意思決定プロセス

(聖人は期せずして古を脩めず)
NetflixのDVDレンタルからストリーミングへの転換

過去の成功モデルや業界の常識にとらわれず、現在の市場データと技術トレンドに基づいて戦略を決定。A/Bテストによる仮説検証、データアナリティクスによる意思決定、失敗を恐れない実験文化の構築など、エビデンスベースの経営を徹底する。

実践のコツ

『前例がない』という理由で、合理的な提案を却下したことはありませんか?

人材採用戦略

(功無きに禄する者無く)
AmazonのBar Raiser採用プロセス

学歴や前職の肩書きではなく、具体的な問題解決能力と過去の実績を重視。行動面接(STAR方式)により、候補者が実際に直面した課題とその解決方法を詳細に聞き出し、再現性のある能力を評価する。

実践のコツ

有名大学出身だから、大企業出身だから、という理由で採用を決めていませんか?

イノベーション管理

(法を以て教えと為す)
3Mの『15%ルール』とイノベーション管理

創造性を属人的な才能に依存させず、システムとして管理。勤務時間の15%を自由研究に充てる制度、失敗を許容する文化、アイデアの定量評価基準など、イノベーションを『運』ではなく『仕組み』で生み出す。

実践のコツ

イノベーションを特定の天才に期待していませんか?それともシステムで生み出していますか?

実践チェックリスト

歴史上の人物による実践例

韓非子の実績主義の思想は、後の中国史において何度も実践され、国家の興亡を左右しました。特に、理想論を排して現実的な政策を実行した改革者たちの事例は、現代のリーダーにも重要な示唆を与えます。

商鞅 - 秦の変法(紀元前356年)

商鞅しょうおうは秦の孝公に仕え、韓非子の思想の先駆けとなる法家思想に基づいて国家改革を断行しました。彼は貴族の特権を廃止し、農民でも軍功を挙げれば爵位を得られる実力主義の制度を導入。『功績なき者に爵位なし』の原則を徹底し、血統や家柄ではなく、戦場での実績によって地位が決まる画期的なシステムを構築しました。この改革により、秦は戦国七雄の中で最も強力な国家となり、後の始皇帝による中国統一の基礎を築きました。