論語

雍也ようや

「仁」のリーダーシップ - 自己の成長と他者への貢献を両立させる、究極の人間関係論
最重要格言
仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す

仁者とは、自分が立ちたいと願えばまず他人を立たせ、自分が目的を達成したいと願えばまず他人を達成させてあげる者だ。

いわく、ようや、南面せしむべし。

仲弓ちゅうきゅう子桑伯子しそうはくしを問う。子いわく、可なり、簡なり。仲弓ちゅうきゅういわく、敬に居て簡を行うは、以て其の民に臨むに、亦可ならずや。簡に居て簡を行うは、乃ち大簡なること無からんや。子いわく、ようの言や然り。

哀公あいこう問う、弟子いずれか学を好むと為す。孔子対えていわわく、顔回がんかいなる者あり、学を好む。怒りをうつさず、過ちをふたたびせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。

子華、斉に使す。冉子ぜんし、其の母の為にぞくを請う。子いわく、これにを与えよ。益すことを請う。いわく、これにを与えよ。冉子ぜんしこれにぞくへいを与う。子いわく、赤の斉に適くにや、肥馬に乗り、軽裘を衣たり。吾これを聞く、君子は急を周いて富めるに継がず。

原思げんし、これが宰と為る。これにぞく九百を予う。辞す。子いわく、毋かれ。以て爾の隣里郷党に与えよ。

子、仲弓ちゅうきゅうを謂いていわく、くろ牛の子も、あかくして且つ角あらば、用うること勿からんと欲すといえども、山川其れ舎てんや。

いわく、回や、其の心三月仁に違わず。其の余は則ち日に月に至るのみ。

季康子きこうし問う、仲由ちゅうゆうは政に従わしむべきか。子いわく、ゆうや果、政に従うに於いて何か有らん。いわく、や、政に従わしむべきか。いわく、や達、政に従うに於いて何か有らん。いわく、求や、政に従わしむべきか。いわく、求や芸、政に従うに於いて何か有らん。

季氏、閔子騫びんしけんをしての宰と為さしむ。閔子騫びんしけんいわく、善く我が為に辞せよ。如し我を復る者有らば、則ち吾は必ずぶん上に在らん。

伯牛はくぎゅう疾有り。子これを見舞う。ゆうより其の手を執りていわく、これを亡う、命なるかな。斯の人にして斯の疾有るとは。斯の人にして斯の疾有るとは。

十一いわく、賢なるかな回や。一たんの食、一ひょうの飲、陋巷ろうこうに在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。

十二 冉求ぜんきゅういわく、子の道を説ばざるに非ず。力足らざるなり。子いわく、力足らざる者は、中道にして廃す。今女はかぎれり。

十三 子、子夏に謂いていわく、女、君子のじゅと為れ。小人のじゅと為ること無かれ。

十四 子游しゆう、武城の宰と為る。子いわく、女、人を得たるか。いわく、澹台滅明たんだいめつめいなる者有り。行くにこみちゆうらず。公事に非ざれば、未だ嘗てえんの室に至らざるなり。

十五いわく、孟之反もうしはんほこらず。奔りて殿しんがりす。将に門に入らんとして、其の馬にむちうちていわく、敢えて後れたるに非ず、馬進まざればなり。

十六いわく、祝鮀しゅくだねい、及び宋朝そうちょうの美無くしては、今の世に免るること難し。

十七いわく、誰か能く出ずるに戸にゆうらざらん。何ぞ斯の道にゆうること莫きや。

十八いわく、質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質ぶんしつ彬彬ひんぴんとして、然る後に君子。

十九いわく、人の生くるや直し。直からずして生くるは、幸いにして免るるなり。

二十いわく、これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。

二十一いわく、中人以上に、上を語るべきなり。中人以下に、上を語るべからざるなり。

二十二 樊遅はんち、知を問う。子いわく、民の義を務め、鬼神きしんを敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。いわく、仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂うべし。

二十三いわく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿し。

二十四いわく、斉、一変せば魯に至らん。魯、一変せば道に至らん。

二十五いわく、ならず。ならんや、ならんや。

二十六 宰我さいが問いていわく、仁者は、これに告ぐるに井に人有りといえども、其れこれに従わんか。子いわく、何為ぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥るべからず。欺くべきも、うべからず。

二十七いわく、君子は博く文を学び、これを約するに礼を以てせば、亦以てそむかざるべきか。

二十八 子、南子なんしを見る。子路しろ説ばず。夫子ちかしていわく、予の否なる所の者は、天これをいとわん、天これをいとわん。

二十九いわく、中庸ちゅうようの徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。

三十 子貢しこういわく、如し博く民に施して能く衆をすくわば、何如。仁と謂うべきか。子いわく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜ぎょうしゅんも其れなおこれめり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近くたとえを取る、仁の方と謂うべきのみ。

先生が言われた。「よう(孔子の弟子・仲弓ちゅうきゅうのこと)は、君主として南向きに座らせるにふさわしい人物だ。」

仲弓ちゅうきゅう子桑伯子しそうはくしという人物について尋ねた。先生は「よろしい。さっぱりとした性格だ」と答えられた。仲弓ちゅうきゅうは言った。「真面目な心を保ちながら、行動がさっぱりしているのなら、民を治める者として問題ないでしょう。しかし、心構えまでさっぱりと大雑把で、行動も大雑把なのでは、あまりに単純すぎませんか。」先生は言われた。「ようの言う通りだ。」

魯の哀公あいこう(魯国第26代君主)が尋ねられた。「お弟子さんの中で、誰が一番学問を好みますか。」孔先生は答えて言われた。「顔回がんかい(孔子の最も愛した弟子で顔淵がんえんとも呼ばれる)という者がおり、学問を好んでおりました。彼は怒りを他人に向けることはなく、同じ過ちを二度と繰り返しませんでした。しかし不幸にも若くして亡くなってしまい、今となってはもうおりません。それ以来、本当に学問を好きだという人物はまだ聞きません。」

弟子の公西華こうせいか(孔子の弟子で子華とも呼ばれる)が、斉国に使いに行った。その折、冉子ぜんし冉有ぜんゆうのこと、孔子の弟子で後に求とも呼ばれる)が華の母親のためにぞくを分けていただきたいとお願いした。先生は「一杯を与えなさい」と言われた。冉子ぜんしがもっとお願いしますと言うと、先生は「一杯を与えなさい」と言われた。ところが冉子ぜんしは、ぞくを五へいも与えてしまった。先生は言われた。「華が斉国へ行くときには、肥えた馬に乗り、軽い上等な裘を着ていた。私が聞いている君子のあり方とは、『困窮している者を助けるが、富んでいる者の富をさらに増すようなことはしない』というものだ。」

原思げんし(孔子の弟子)が先生の家の家令になった。先生は彼に俸給としてぞくを九百与えたが、彼は多すぎると辞退した。先生は言われた。「辞退することはない。もし余るようなら、あなたの郷里の人々に分け与えてあげなさい。」

先生は仲弓ちゅうきゅうについて言われた。「まだら模様の牛から生まれた子牛であっても、毛色が赤一色で立派な角があれば、たとえ用いるまいと思っても、山の神や川の神がどうしてそれを見捨てるだろうか。」

先生が言われた。「顔回がんかいは、その心が三ヶ月もの間、仁の道から外れることがなかった。他の弟子たちは、一日か一ヶ月くらい仁の心に至るだけだ。」

季康子きこうし(魯国の実力者で三桓氏さんかんしの一人)が尋ねた。「仲由ちゅうゆう子路しろのこと、孔子の弟子)は、政治の仕事に就かせることができるでしょうか。」先生は言われた。「ゆうは決断力がある。政治の仕事をする上で、何の問題があろうか。」季康子きこうしが「子貢しこうのこと、孔子の弟子)は、政治の仕事に就かせることができるでしょうか」と尋ねると、先生は言われた。「物事によく通じている。政治の仕事をする上で、何の問題があろうか。」季康子きこうしが「求(冉求ぜんきゅうのこと、冉有ぜんゆうの別名で孔子の弟子)は、政治の仕事に就かせることができるでしょうか」と尋ねると、先生は言われた。「求は多才だ。政治の仕事をする上で、何の問題があろうか。」

季氏が閔子騫びんしけん(孔子の弟子で孝行で有名)をの町の代官にしようとした。閔子騫びんしけんは言った。「私のために、うまく辞退してください。もしもう一度私を召しに来るようなことがあれば、私は亡命して必ずぶん水のほとりに行ってしまうでしょう。」

伯牛はくぎゅう冉耕ぜんこうのこと、孔子の弟子)が重い気にかかった。先生が見舞いに行き、家の窓から彼の手を取って言われた。「彼を失うことになるとは。これが天命というものか。このような善人が、このような気になるなんて。このような善人が、このような気になるなんて。」

十一 先生が言われた。「なんと賢い男だろう、顔回がんかいは。竹の器一杯の飯と、ひさご一杯の飲み物だけで、薄汚い路地裏に住んでいる。他の人ならその貧しい暮らしの辛さに耐えられないだろうに、顔回がんかいは自分の楽しみを失わない。なんと賢い男だろう、顔回がんかいは。」

十二 冉求ぜんきゅう冉有ぜんゆうのこと、孔子の弟子で冉子ぜんしと同一人物)が言った。「先生の教えが喜ばしくないわけではありません。ただ私の力が足りないのです。」先生は言われた。「本当に力が足りない者は、道の途中で力尽きてやめてしまうものだ。今のあなたは、自分から『ここまでだ』と限界を定めてしまっている。

十三 先生が子夏(孔子の弟子で文学に長けていた)に言われた。「君のためになる立派な学者になりなさい。自分の利益だけを考えるつまらない学者になってはならない。」

十四 子游しゆう(孔子の弟子)が武城の町の代官になった。先生が尋ねられた。「君は良い人材を見つけたかね。」子游しゆうは答えた。「澹台滅明たんだいめつめい(孔子の弟子で品格が高いことで知られる)という人物がおります。彼は近道を使おうとせず、公的な用事でなければ、私の部屋を訪れたこともありません。」

十五 先生が言われた。「孟之反もうしはん(魯国の武将で謙虚さで知られる)という人物は、自分の功績を誇らない。撤退戦ではしんがりを務めて皆を逃がしたのに、城門に入ろうとするまさにその時に、自分の馬に鞭を打ってこう言った。『わざと最後になったのではない。馬が進まなかっただけなのだ』と。」

十六 先生が言われた。「祝鮀しゅくだ(弁舌で名を馳せた政治家)のような弁舌の巧みさと、宋の公子朝(宋国の公子で美貌で有名)のような美貌がなければ、今の乱れた世の中でうまく立ち回っていくのは難しいものだ。」

十七 先生が言われた。「誰だって家を出るのに戸口を通らない者がいようか。それなのに、どうして人は人の道を通ろうとしないのだろうか。」

十八 先生が言われた。「素朴な本質が、教養や外見の美しさに勝ってしまうと、野暮になる。逆に教養や外見が本質に勝ってしまうと、中身が伴わず軽薄になる。教養と本質がほどよく調和して、初めて立派な君子といえるのだ。

十九 先生が言われた。「人が生きていく道は、本来まっすぐなものだ。まっすぐでないのに生き長らえているのは、ただ幸運によって災いを免れているにすぎない。」

二十 先生が言われた。「道をただ知っているだけの者は、それを好んでいる者には及ばない。それをただ好んでいるだけの者は、それを心から楽しんでいる者には及ばない。

二十一 先生が言われた。「平均的な知力以上の者には、高度な道を語ってもよい。しかし、平均的な知力以下の者には、高度な道を語るべきではない。」

二十二 樊遅はんち(孔子の弟子で実学を好んだ)が「知」について尋ねた。先生は言われた。「人として当然行うべき務めに専心し、鬼神きしんのような人知を超えた存在は敬いはするが、距離を置いておく。これが知と言えるだろう。」次に「仁」について尋ねた。先生は言われた。「仁者とは、困難なことを人より先に行い、利益を得るのは後にする。これが仁と言えるだろう。」

二十三 先生が言われた。「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は活動的であり、仁者は静かである。知者は楽しみ、仁者は長寿を全うする。」

二十四 先生が言われた。「斉の国が一変すれば、道義の国である魯のようになるだろう。その魯の国が一変すれば、理想の道が行われる世になるだろう。」

二十五 先生が言われた。「『』という酒器が、『』としての形をなしていない。これでは『』と言えるだろうか、いや言えない。」

二十六 宰我さいが(孔子の弟子で弁論に長けていたが孔子に叱られることも多かった)が尋ねた。「仁者は、たとえ『井戸の中に人が落ちていますよ』と告げられたとしても、それを信じて自分も井戸の中に入ってしまうものでしょうか。」先生は言われた。「どうしてそんなことをしようか。君子は井戸のそばまで行くことはあっても、自ら井戸に落ち込むようなことはしない。騙されることはあっても、道理に反したことで惑わされることはないのだ。」

二十七 先生が言われた。「君子は広く古典文学を学び、その知識を礼儀作法によって実践的に集約していけば、道から踏み外すこともなくなるだろう。」

二十八 先生が衛の霊公の夫人である南子なんし(衛の霊公の妻で美貌と聡明さで知られる)に会われた。子路しろはこれを喜ばなかった。先生は誓って言われた。「もし私が何か不正なことをしたのであれば、天が私を見放すだろう。天が私を見放すだろう。」

二十九 先生が言われた。「中庸ちゅうようという徳は、なんと至高のものなのだろうか。しかし、それを持つ民は長い間まれになってしまった。」

三十 子貢しこう(前述ののこと)が言った。「もし民衆に広く恩恵を施し、多くの人々を救すくできる人物がいたら、どうでしょうか。仁者と言えるでしょうか。」先生は言われた。「どうして仁者などというレベルだろうか。それは必ずや聖人だろう。古代の聖天子である堯(伝説的な聖王)や舜(禅譲により堯から王位を受け継いだ聖王)でさえ、そのことには心を悩まされたのだ。そもそも仁者とは、自分が立ちたいと思えばまず他人を立たせ、自分が目的を達成したいと思えばまず他人を達成させてあげるものだ。身近なところから他人の気持ちを推し量ることができる、これこそが仁を実践する方法と言えるだろう。」

雍也篇が扱う主題

雍也篇仁のリーダーシップについて書かれています。

雍也ようや篇は、孔子が理想とした最高の徳「仁」の具体的な実践方法について述べられています。「仁」とは、自分が成功したいなら、まず他者を成功させるという、自己の成長と他者への貢献が一体となったリーダーシップのあり方です。

雍也篇の特徴的な教え

孔子は、自分一人の成功を追求するのではなく、他者との関係性の中で自己を確立していくことの重要性を説きました。

仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。

仁者とは、自分が自立したいと願えばまず他人を自立させ、自分が目的を達成したいと願えばまず他人を達成させてあげる者だ。他者の成功が自己の成功の基盤となる。

なぜ現代でも重要なのか

現代経営では「サーバント・リーダーシップ」や「エンパワーメント」が重視されています。これは、リーダーが部下を支配するのではなく、部下の成長を支援することで、結果的に組織全体の成果を最大化するという考え方です。雍也篇の「仁」の思想は、この現代的なリーダーシップ論の源流と言えます。

チームや組織の目標設定において、個人の目標達成(自己の確立)と、チームメンバーへの貢献(他者の確立)を明確に結びつけることで、競争ではなく「協創」の文化を醸成し、持続的な成長を実現できます。

この章の核となる思想を掘り下げる

仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す

古典の文脈

孔子が説く「仁」の最高到達点であり、その具体的な実践方法を示した言葉です。自分の成功と他人の成功が切り離せないものであるという、儒教の社会観・人間観の核心を表しています。これは単なる自己犠牲ではなく、他者への貢献を通じて自己をも高めていくという、持続可能な成長の姿です。

現代的意義

現代のリーダーシップ論や組織論において、この思想は「サーバント・リーダーシップ」や「エンパワーメント」の原点と言えます。メンバーの成功を自身の成功と捉え、彼らの成長を支援することが、結果的にチーム全体のパフォーマンスを最大化するという考え方です。個人の成果が問われる時代だからこそ、この他者貢献の視点が真の求心力を生みます。

実践的価値

あなたのチームや組織で、メンバーの成長支援を後回しにしていませんか?この教えの実践は、「部下の成長が、あなたの評価(自己の確立)に直結する」と考えることから始まります。1on1ミーティングで部下の目標達成を支援したり、成果を上げたメンバーを称賛したりすること。他者を「立てる」ことで、あなた自身も「立つ」ことができるのです。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたがチームリーダーとして「個人の成果」と「部下の育成」の両立に悩んだら?

雍也篇の「仁」は、自己の成長と他者への貢献はトレードオフではなく、両立可能であると説きます。部下を成功させることが、あなた自身の成功に繋がるヒントを学びましょう。

他者の確立(人を立てる)

(人を立て)
セールスフォースCEOマーク・ベニオフ

「Ohana(家族)文化」を通じて社員の成長を最優先に据え、結果として企業価値を250億ドルまで押し上げた。社員満足度が業績向上の土台となることを証明。

実践のコツ

メンバー個人の目標達成のために、あなたは何を犠牲にしても支援する覚悟があるか?

自己の確立(己を立てる)

(己れ立たんと欲す)
スターバックス創業者ハワード・シュルツ

全従業員に株式配当と医療保険を提供(当時業界初)することで、従業員の成功を自社の成功と一体化。結果として世界最大のコーヒーチェーンを築き上げた。

実践のコツ

チームメンバーが成功したとき、あなたも同時に成長していると実感できているか?

仁の調和(共同成長)

(己達せんと欲して人を達す)
パタゴニア創業者イヴォン・シュイナード

社員の価値観実現(環境保護)と企業成長を両立させることで、ブランド価値と売上の双方を向上。「Purpose-driven経営」の先駆けとして、持続的成長を実現。

実践のコツ

メンバーの個人的な夢や価値観の実現が、チームの目標達成とどう結びついているか?

実践チェックリスト

歴史上の人物による実践例

「仁」のリーダーシップは、組織が危機に陥った時にこそ、その真価を発揮します。私利私欲を捨て、領民の再生(人を立てる)に全てを捧げることで、自らも名君として歴史に名を残したリーダーの物語です。

上杉鷹山 - 米沢藩の藩政改革

破綻寸前だった米沢藩の藩主となった上杉鷹山は、自ら質素倹約に努め、「なせばなる」の精神で領民と一体となり産業振興や教育改革を断行しました。彼は、領民が豊かになること(人を立てる)こそが藩の再建(己を立てる)に繋がると信じ、私心なく改革をやり遂げました。彼のリーダーシップは、「仁」の実践そのものであり、多くの経営者やリーダーに影響を与え続けています。