孫子

地形篇

リーダーは、環境、組織、そして自らを正確に把握し、無駄な戦いを避け、勝利を導く。この章は、状況を診断する「六地の戦略」と、組織を健全に保つ「六敗の予防」を説き、真のリーダーシップの要諦を明らかにする。
最重要格言
彼を知り己を知り天地を知れば、勝はあやうくない

敵を知り、自分を知り、環境を知れば、勝利は確実である。三つの要素を統合的に判断する戦略的思考の完成形。

孫子そんしいわく、地形に、通あり、けいあり、支あり、あいあり、険あり、遠あり。 我往く可く、彼も来たる可きを、通といわう。通形には、先に高陽こうように拠り、糧道りょうどうを利して戦うときは、すなわち利あり。 行く可くして、返り難きを、けいいわう。けい形には、敵に備え無くんば、出でてこれに勝ち、敵に備え有らば、出でて勝たずんば、返り難くして、不なり。 我出でて不り、彼出でて不りなるを、支といわう。支形には、敵、我を利するも、我出でず。兵を引きて去り、敵をして半ば出でしめて、これを撃つは利あり。 あい形には、我先にこれに居らば、必ずこれを実ちて以て敵を待つ。若し敵先んじてこれに居り、これを実たば、従いて攻むること勿かれ。実たずんば、従いてこれを攻めよ。 険形には、我先にこれに居らば、必ず高陽こうように拠りて以て敵を待つ。若し敵先んじてこれに居らば、兵を引きて去りて、従うこと勿かれ。 遠形には、勢い均しければ、以て戦いを挑み難く、戦うも利あらず。 およそこの六者は、地の道なり。将の至任にして、察せざる可からざるなり。

故に兵に、走あり、あり、陥あり、崩あり、乱あり、北あり。およそこの六者は、天の災に非ず、将の過ちなり。 夫れ勢い均しきに、一を以て十を撃つを、走といわう。 卒強くして吏弱きを、いわう。 吏強くして卒弱きを、陥といわう。 大吏怒りて服さず、敵に遇いてうらみて自ら戦い、将、その能を知らざるを、崩といわう。 将、弱くして厳ならず、教道、明らかならず、吏卒、常無く、陳を縦横に置くを、乱といわう。 将、敵を料ること能わず、小を以て衆に敵し、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒せんぽう無きを、北といわう。 およそこの六者は、敗の道なり。将の至任にして、察せざる可からざるなり。

夫れ地形は兵の助けなり。敵を料りて勝ちを制し、険隘けんあい遠近を計るは、上将の道なり。此れを知りて戦いを用うる者は必ず勝ち、此れを知らずして戦いを用うる者は必ず敗る。 故に戦道、必ず勝つとせば、主、戦うこと勿かれといわうも、必ず戦うは可なり。戦道、勝たずとせば、主、必ず戦えといわうも、戦わざるは可なり。 故に進みて名を求めず、退きて罪を避けず、唯だ民をれ保ちて、利、主に合うは、国の宝なり。

卒を視ること嬰児えいじの如し。故にこれと深谿しんけいおもむく可し。卒を視ること愛子の如し。故にこれとともに死す可し。厚くして使うこと能わず、愛して令すること能わず、乱れて治むること能わざれば、譬えば驕子きょうしの如く、用う可からざるなり。

我が卒の撃つ可きを知りて、敵の撃つ可からざるを知らざるは、勝の半ばなり。敵の撃つ可きを知りて、我が卒の撃つ可からざるを知らざるは、勝の半ばなり。敵の撃つ可きを知り、我が卒の撃つ可きを知りて、地形の以て戦う可からざるを知らざるは、勝の半ばなり。 故に兵を知る者は、動きて迷わず、挙げて窮せず。 故にいわく、彼を知り己を知れば、勝、乃ちあやううからず。天を知り地を知れば、勝、乃ち全かる可し。

孫子そんしが言う。地形には「通」「けい」「支」「あい」「険」「遠」の六種類がある。

  1. : 先手必勝の道。我々も敵も進める地形。この地形では、まず敵より先に高地で日当たりの良い場所を占拠し、食糧補給路を確保して戦えば、有利である。
  2. けい: 進むのは容易だが、退却するのは困難な地形。この地形では、敵に備えがなければ、進撃して勝利することができる。しかし、もし敵に備えがあれば、進撃しても勝てず、退却も困難となり、不利になる。
  3. : 我々が進んでも不利であり、敵が進んできても不利な地形。この地形では、たとえ敵が有利な条件で誘ってきても、出てはならない。兵を引いて退却するふりをし、敵が半分ほど出てきたところを攻撃するのが有利である。
  4. あい: 狭く険しい道のある地形。この地形では、我々が先に占拠したならば、必ず兵で固めて敵を待て。もし敵が先に占拠し、兵で固めているならば、後から攻めてはならない。固めていないならば、後から攻めよ。
  5. : 険しい山岳地帯。この地形では、我々が先に占拠したならば、必ず高地で日当たりの良い場所を占拠して敵を待て。もし敵が先に占拠しているならば、兵を引いて退却し、これを追ってはならない。
  6. : 敵陣まで遠く離れている地形。この地形では、互いの戦力が互角ならば、戦いを仕掛けるのは難しく、戦っても利益はない。

およそこの六つは、地形に応じた戦いの原則である。将軍にとって最も重要な任務であり、よくよく考察しなければならない。

したがって、軍隊には「走」「」「陥」「崩」「乱」「北」という六つの敗因がある。およそこの六つの敗北パターンは、決して天災ではない。すべては将軍自身の過ちである。

  1. : 戦力が互角であるのに、一をもって十を撃つような無謀な攻撃をすること。
  2. : 兵士は強いのに、将校が弱いこと。
  3. : 将校は強いのに、兵士が弱いこと。
  4. : 上級将校が将軍に不満を抱いて命令に従わず、敵に遭遇すると勝手に戦いを始め、将軍がその能力を把握していないこと。
  5. : 将軍が弱くて威厳がなく、教育や命令が不明確で、将校や兵士に規律がなく、陣形が乱雑であること。
  6. : 将軍が敵情を判断できず、少数で大軍に、弱兵で強兵に当たり、精鋭部隊を編成していないこと。 およそこの六つは、敗北に至る道である。将軍にとって最も重要な任務であり、よくよく考察しなければならない。

そもそも地形というものは、軍隊を助けるものである。敵情を分析して勝利を確実なものとし、険しい地形や隘路あいろ(進行の難所)、距離の遠近を計算するのは、優れた将軍の道である。これを理解して戦う者は必ず勝ち、これを理解せずに戦う者は必ず負ける。 故に戦いの道理から見て必ず勝てるのであれば、たとえ君主が「戦うな」と言っても、必ず戦うべきである。戦いの道理から見て勝てないのであれば、たとえ君主が「必ず戦え」と言っても、戦わないことが許される。 故に進んで名誉を求めることなく、退いて罪を避けることもなく、ただひたすら民衆の安全を保ち、君主の利益となるように行動する将軍は、国の宝である。

兵士を見ること、まるで赤子に対するようにせよ。そうすれば、兵士は将軍と共に深い谷底へもおもむくだろう。兵士を見ること、まるで我が子に対するようにせよ。そうすれば、兵士は将軍と共に死ぬことも厭わないだろう。しかし、手厚く待遇するだけで命令できず、可愛がるだけで使うことができず、軍紀が乱れても収めることができなければ、それはまるで甘やかされた子供のようなもので、全く使い物にならない。

自軍が攻撃可能であると知っていても、敵が攻撃不可能な状態であることを知らなければ、勝利の確率は半分である。敵が攻撃可能であると知っていても、自軍が攻撃不可能な状態であることを知らなければ、勝利の確率は半分である。敵が攻撃可能であることを知り、自軍が攻撃可能であることを知っていても、地形が戦闘に適していないことを知らなければ、勝利の確率は半分である。 したがって、本当に兵法を知る者は、行動しても道に迷うことはなく、軍を動かしても行き詰まることはない。 だから言うのだ。「敵を知り自分を知れば、勝利は危うくならない。天の時を知り地の利を知れば、勝利を完全にすることができる。」と。

地形篇が扱う主題

地形篇状況判断と組織管理について書かれています。

孫子そんしは「六地」として6つの地形に応じた戦略選択を説き、「六敗」として組織崩壊の6つのパターンを警告しました。環境適応力と組織管理能力の統合的運用を論じています。

地形篇の特徴的な教え

孫子そんしは「彼を知り己を知り天地を知れば、勝はあやうくない」として、敵・自分・環境の三要素を統合的に判断する重要性を説きました。これは戦略的思考の最高形態です。

六地

通・けい・支・あい・険・遠の六つの地形分類。それぞれの特性に応じた適切な戦術を選択する状況判断フレームワーク。

六敗

走・・陥・崩・乱・北の六つの敗北パターン。すべて将軍の過ちに起因する組織管理の落とし穴。

三要素統合判断

敵・自分・環境(彼・己・天地)の三つを同時に考慮する戦略的思考法。部分最適ではなく全体最適を目指す。

国の宝

名誉や保身より民と国益を優先する将軍。真のリーダーシップの理想像を示す概念。

なぜ現代でも重要なのか

現代の複雑なビジネス環境では、状況に応じた戦略選択と、組織の健康状態を管理する能力が成功の鍵となります。

戦略立案、組織運営、プロジェクト管理、リスク管理において、環境分析と組織診断を統合した意思決定手法として活用できます。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたが複雑な市場環境で組織を運営する経営者だったら?

地形篇の「六地の戦略選択」と「六敗の予防」を現代ビジネスに応用すると、状況に応じた最適戦略の選択と組織リスクの事前回避による持続的成功の実現となります。孫子が説いた4つの統合的判断原理を、現代企業の成功事例で学びましょう。

競争優位の確保

(通地での先手必勝)
Amazon vs クラウド市場

成長期のクラウド市場(通地)でいち早く高いシェア(高陽)を確保し、インフラとサービスの両面で優位な地位を築いて後発を圧倒

実践のコツ

成長市場では競合よりも早く優位なポジションを確保する戦略があるか?

リスク回避の判断

(支地での慎重戦略)
Microsoft vs スマートフォン市場

iPhone・Android双方が強い市場(支地)で無理に参入せず、Windows Phone撤退を決断し、クラウドやAIに経営資源を集中

実践のコツ

双方に不利な競争では無理をせず、より有利な戦場を選ぶ判断力があるか?

組織崩壊の予防

(六敗パターンの回避)
Google vs 組織管理

急成長による組織の「乱」(混乱)を防ぐため、OKRシステムで目標を明確化し、定期的な組織診断で問題を早期発見・修正

実践のコツ

組織の混乱、士気低下、コミュニケーション不全などの兆候を早期発見する仕組みがあるか?

三要素統合判断

(彼を知り己を知り天地を知る)
Tesla vs 自動車業界参入

既存メーカーの弱み(彼)、自社の技術力(己)、電動化トレンド(天地)を統合分析し、高級車から段階的に市場を攻略

実践のコツ

重要な戦略判断で、競合分析・自社分析・環境分析の三つを必ず統合しているか?

実践チェックリスト

この章の核となる思想を掘り下げる

彼を知り己を知り天地を知れば、勝はあやうくない

古典の文脈

この格言は地形篇の思想的頂点として位置づけられた、戦略的思考の完成形を示した教えです。謀攻篇の「彼を知り己を知れば」に「天地を知る」(環境を知る)を加えた三要素統合判断法で、部分的な分析ではなく全体的な戦略判断の重要性を説いています。これは現代の経営戦略における「3C分析」(Customer・Company・Competitor)の原型とも言える深い洞察です。

現代的意義

現代社会において、この教えは「多角的視点による総合判断」の重要性を示しています。新規事業への参入、投資判断、人事異動、戦略的提携など、重要な意思決定において「相手の状況」「自社の能力」「市場環境」の三つを同程度の重みで分析することが求められます。一つの要素だけでは見えない全体像が、三つを統合することで初めて明確になります。これこそが「勝は殆くない」確実性の源泉です。

実践的価値

明日からあなたができること

重要な判断の前に「3C分析シート」を作成してください。上段に「競合・市場の状況」、中段に「自社・自分の能力」、下段に「環境・トレンドの変化」を書き出し、三つの相関関係を矢印で結んで全体像を把握する。

この習慣により、表面的な判断から脱却し、戦略的な思考力が飛躍的に向上します。特に大きな決断ほど、時間をかけて三要素を精査することが重要です。

歴史上の人物による実践例

「彼を知り己を知り天地を知る」という地形篇の三要素統合判断は、日本史上最も慎重かつ大胆な戦略家によって完璧に実践されました。環境の変化を読み、自軍の限界を知り、敵の動きを把握することで、天下統一という前人未到の偉業を成し遂げた男の物語です。

徳川家康 - 関ヶ原の戦いにおける三要素統合判断

徳川家康は地形篇の「三要素統合判断」を完璧に体現しました。

「彼を知る」として、石田三成の人望の薄さと西軍諸将の不和を徹底的に調査・分析。

「己を知る」として、東軍の結束力の限界と自身の年齢による時間的制約を冷静に認識。

「天地を知る」として、関ヶ原という狭あいな地形が大軍同士の決戦に適していることを見抜き、さらに当日の霧という天候さえも計算に入れました。

事前の調略で小早川秀秋らを内応させ、「六敗」のうち「崩」(内部崩壊)を西軍に引き起こすことに成功。わずか半日で天下分け目の戦いに勝利したのは、まさに三要素を統合的に判断し、環境と組織を完全に掌握した結果でした。