孫子

軍争ぐんそう

競争における主導権の獲得は、最も困難だが、成功の鍵となる。一見遠回りに見えても、結果的に優位に立つ「迂直の計」を理解し活用する。状況に応じて、迅速な行動、慎重な待機、積極的な攻勢、不動の堅持を使い分ける。
最重要格言
その疾きこと風のごとく、そのしずかなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし

状況に応じて、風のように迅速に、林のように静かに、火のように激しく、山のように動かない―四つの行動様式を使い分ける。

孫子そんしいわく、およそ兵を用うるの法は、将、命を君より受け、軍を合し衆をあつめ、和を交えて舎まるに、軍争ぐんそうより難きはなし。軍争ぐんそうの難きは、迂をもって直となし、患をもって利となす。ゆえにその途を迂にして、これをいざなうに利をもってし、人に後れて発し、人に先んじて至る。これ迂直うちょくの計を知る者なり。

ゆえに軍争ぐんそうは利たり、軍争ぐんそうは危たり。軍を挙げて利を争えばすなわち及ばず、軍をてて利を争えばすなわち輜重しちょうてらる。このゆえに軍に輜重しちょうなければすなわち亡び、糧食なければすなわち亡び、委積いせきなければすなわち亡ぶ。このゆえに甲をきてはしり、いわらず、道を倍して兼行し、百里にして利を争うときは、すなわち三将軍をとりこにせらる。つよき者は先だち、疲るる者は後れ、その法、十にして一至る。

五十里にして利を争うときは、すなわち上将軍をたおす。その法、半ば至る。三十里にして利を争うときは、すなわち三分の二至る。

このゆえに、諸侯の謀を知らざる者は、予め交わること能わず。山林・険阻けんそ沮沢そたくの形を知らざる者は、軍を行ること能わず。郷導きょうどうを用いざる者は、地の利を得ること能わず。

ゆえに兵は詐をもって立ち、利をもって動き、分合をもって変をなすものなり。ゆえにその疾きこと風のごとく、そのしずかなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとく、知り難きこと陰のごとく、動くこと雷震らいしんのごとし。きょうかすむるには衆を分かち、地をひろむるには利を分かち、はかけて動く。迂直うちょくの計を先知する者は勝つ。これ軍争ぐんそうの法なり。

軍政ぐんせいいわく、「言うともあい聞えず、ゆえに金鼓きんこを為る。視すともあい見えず、ゆえに旌旗せいきを為る」と。それ金鼓きんこ旌旗せいきは人の耳目を一にするゆえんなり。人すでに専一なれば、すなわち勇者もひとり進むことを得ず、怯者もひとり退くことを得ず。これ衆を用うるの法なり。

ゆえに三軍には気を奪うべく、将軍には心を奪うべし。このゆえに朝の気は鋭、昼の気は惰、暮の気は帰。ゆえに善く兵を用うる者は、その鋭気を避けてその惰帰を撃つ。これ気を治むる者なり。治をもって乱を待ち、静をもってかまびすを待つ。これ心を治むる者なり。近きをもって遠きを待ち、佚をもって労を待ち、飽をもって饑を待つ。これ力を治むる者なり。正々の旗をむかうることなく、堂々の陳を撃つことなし。これ変を治むるものなり。

故に、高陵には向かうこと勿かれ。丘を背にするには逆うこと勿かれ。偽りてぐるにはしたがうこと勿かれ。鋭卒には攻むること勿かれ。餌兵じへいには食らうこと勿かれ。帰師にはとどむること勿かれ。囲師いしには必ずき、窮寇きゅうこうには迫ること勿かれ。此れ兵を用うるの法なり。

孫子そんしが言う。およそ軍を動かすにあたっては、将軍が君主から命令を受け、兵士を集めて軍を編成し、敵と対峙して陣を構えるまでのプロセスで、「軍争ぐんそう」ほど難しいものはない。軍争ぐんそう」の難しさとは、一見遠回りに見える迂回路を最も近道とし、不利な状況を有利な状況に転換させることにある。だから、あえて遠回りをして敵を油断させ、利益で敵をいざない出し、敵より後から出発して、敵より先に目的地に到着するのである。これが「迂直うちょくの計」を熟知している者である。

軍争ぐんそう」(有利な地点を敵と争うこと)は、利益にもなれば、危険にもなる。全軍を率いて有利な地点を争えば、間に合わないことがある。かといって、部隊の一部だけを見軽な装備で行かせれば、食糧や物資を失うことになる。

したがって、軍隊に物資(輜重しちょう)がなければ滅び、食糧がなければ滅び、備蓄がなければ滅びるのである。だから、鎧をき上げて身軽にして走り、昼も夜も休まず、通常の倍の距離を急行し、百里先で有利な地点を争うようなことをすれば、三人の将軍は皆、敵の捕虜となるだろう。体力のある屈強な兵は先に行くが、疲れた兵は遅れてしまい、その方法では軍の十分の一しか目的地に到着しない。

五十里先で有利な地点を争えば、先頭の将軍は打ち破られ、その方法では軍の半分しか到着しない。三十里先で有利な地点を争えば、軍の三分の二が到着するだろう。

このような理由から、諸侯の戦略を知らない者は、同盟を結ぶべきではない。山林、険しい隘路、沼沢地といった地形を知らない者は、軍を進めることはできない。現地の道案内を用いない者は、地の利を得ることはできない。

したがって、軍隊とは、敵を欺くことで成り立ち、有利になるように動き、分散と集中によって変化を生み出すものである。その動きは、疾きこと風のごとく(速いときは風のように)、しずかなること林のごとく(静かなときは林のように)、侵掠すること火のごとく(攻め込むときは火のように)、動かざること山のごとく(守るときは山のように)、知り難きこと陰のごとく(隠れるときは陰のように)、動くこと雷震らいしんのごとし(現れるときは雷のように)であるべきだ。村を攻略する際は兵を分け、領地を広げる際は利益を分配し、全体の利害をよく計ってから行動する。この「迂直うちょくの計」を先に知っている者が勝つ。これが「軍争ぐんそう」の原則である。

古い軍法書(軍政ぐんせい)にこうある。「声で指示しても互いに聞こえない。だから銅鑼や太鼓を使う。姿を見せても互いに見えない。だから旗指物を使う」。銅鑼や太鼓、旗指物は、兵士たちの注意を一つにまとめるためのものである。兵士たちが一つにまとまれば、勇者だけが勝手に進むこともできず、臆病者だけが勝手に退くこともできなくなる。これこそが、大軍を運用する方法である。

したがって、敵の三軍に対してはその「気力」を奪うのがよく、敵の将軍に対してはその「心」を奪うのがよい。そもそも、朝の気力は鋭く、昼の気力はだれ、日暮れの気力は尽きるものである。だから、戦上手な者は、敵の気力が鋭い時を避け、その気力がだれて帰りたがっている時を攻撃する。これが「気」を治める方法である。治まった状態で乱れた敵を待ち、静かな状態で騒がしい敵を待ち。これが「心」を治める方法である。近い場所で遠くから来る敵を待ち、休養十分な状態で疲労した敵を待ち、食糧十分な状態で飢えた敵を待つ。これが「力」を治める方法である。整然とした旗の敵を迎撃せず、堂々とした陣容の敵を攻撃しない。これが「変」を治める方法である。

故に、高地にいる敵に向かって攻め上ってはならない。丘を背にしている敵を正面から迎撃してはならない。偽って敗走する敵を深追いしてはならない。気力が鋭い精鋭部隊には(正面から)攻撃を仕掛けてはならない。おとりの部隊に食いついてはならない。故国へ引き上げようとする軍隊の退路を塞いではならない。敵軍を包囲した際には、必ず逃げ道を一つ開けておき、窮地に陥った敵を追い詰めてはならない。これが軍を運用する上での原則である。

軍争篇が扱う主題

軍争篇戦略的主導権と「風林火山」について書かれています。

孫子そんしは「迂直うちょくの計」として、一見遠回りに見える道が最短距離となる逆説的戦略を説きました。そして「風林火山」で状況に応じた4つの行動様式を示しています。

軍争篇の特徴的な教え

孫子そんしは「疾きこと風のごとく、しずかなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし」として、自然界の4つの現象を戦略的行動の理想形として提示しました。

迂直うちょくの計

遠回りを近道に変える戦略。一見不利に見える選択が、結果的に最短距離となる逆説的思考。

疾きこと風のごとく

機会を捉えたときの迅速な行動。風のように素早く、的確に動く行動様式。

しずかなること林のごとく

時機を待つときの静寂さ。林のように動かず、エネルギーを蓄える行動様式。

侵掠すること火のごとく

攻勢に出るときの激しさ。火のように勢いよく、一気に相手を圧倒する行動様式。

動かざること山のごとし

守りを固めるときの不動性。山のように動かず、確固とした意志を貫く行動様式。

なぜ現代でも重要なのか

現代の競争環境では、直線的なアプローチよりも戦略的な迂回が効果的な場合が多くあります。また、状況に応じた柔軟な行動様式の切り替えが成功の鍵となります。

ビジネス戦略、プロジェクト管理、チームマネジメント、個人の成長戦略において、時機を読み、適切な行動様式を選択する手法として活用できます。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたが激しい競争市場で新サービスを立ち上げる責任者だったら?

軍争篇の「迂直の計」と「風林火山」を現代ビジネスに応用すると、主導権を握りながら市場競争を制する戦略となります。孫子が説いた4つの戦略的行動様式を、現代企業の成功事例で学びましょう。

迅速な機会獲得

(疾きこと風のごとく)
Uber vs タクシー業界

スマートフォンの普及とGPS技術の成熟を瞬時に捉え、風のような速さで配車アプリを世界展開し、既存業界を一気に変革

実践のコツ

市場の変化や技術の進歩をいち早く察知し、競合より素早く行動する準備はできているか?

戦略的待機

(徐かなること林のごとく)
Amazon vs ドットコムバブル

バブル期に多くの企業が派手な拡大を図る中、Amazonは林のような静寂さで基盤技術とロジスティクスに集中投資し力を蓄えた

実践のコツ

周囲が騒がしく動いているときに、じっくりと基盤を固める忍耐力があるか?

一気呵成の攻勢

(侵掠すること火のごとく)
Tesla vs 既存自動車メーカー

電気自動車技術が成熟したタイミングで、火のような勢いで高級車から大衆車まで一気に市場を席巻し、業界の勢力図を塗り替え

実践のコツ

勝機が見えたときに、全リソースを集中投下して一気に市場を制圧する戦略はあるか?

確固たる守り

(動かざること山のごとし)
Apple vs 価格競争

他社が価格競争に巻き込まれる中、Appleは山のような不動の姿勢でプレミアム戦略を堅持し、高収益体質を維持

実践のコツ

他社が方向転換する中でも、自社の核となる価値を山のように守り抜く覚悟はあるか?

実践チェックリスト

この章の核となる思想を掘り下げる

その疾きこと風のごとく、そのしずかなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし

古典の文脈

この格言は軍争篇の白眉として位置づけられた、戦略的行動の4つの理想形を示した教えです。後に武田信玄の軍旗「風林火山」として有名になったこの思想は、自然界の4つの現象を戦略的行動の手本とした深い洞察です。風の迅速さ、林の静寂さ、火の激しさ、山の不動性―それぞれが異なる状況で求められる最適な行動様式を表しています。

現代的意義

現代社会において、この教えは「状況適応力」の重要性を示しています。同じ人や組織でも、場面によって全く異なる行動様式が求められます。新規事業では風のようなスピード、市場分析では林のような冷静さ、競合との決戦では火のような勢い、核となる価値観では山のような不動性。真のリーダーは、今がどの局面なのかを見極め、適切な「モード」を選択する能力を持っています。

実践的価値

明日からあなたができること

毎朝「今日は風林火山のどれが必要か」を自問してください。

重要な会議がある日は「火」、情報収集の日は「林」、新しいチャレンジの日は「風」、価値観が問われる場面では「山」。

この4つの行動モードを意識的に使い分けることで、状況に応じた最適なパフォーマンスを発揮できるようになります。スマホに「今日のモード:風/林/火/山」とメモしておくだけでも効果的です。

歴史上の人物による実践例

「迂直の計」と「風林火山」という軍争篇の核心原理は、日本戦国史上最も戦略的な軍団によって完璧に実践されました。状況に応じて行動様式を自在に変化させ、主導権を握り続けた戦略の天才とその軍団の物語です。

武田信玄と武田軍団 - 「風林火山」の軍旗による戦略的行動様式の実践

武田信玄が軍旗に掲げた「風林火山」は、軍争ぐんそう篇の戦略思想を完璧に体現したものでした。

「疾きこと風のごとく」として、川中島の戦いでは奇襲作戦で上杉軍を翻弄し、しずかなること林のごとく」として、長期間にわたる調略と情報収集で敵情を完全把握し、侵掠すること火のごとく」として、駿河侵攻では一気呵成に今川領を席し、「動かざること山のごとし」として、織田・徳川連合軍の挑発に動じず自らの戦略ペースを堅持しました。

信玄は単なる武将ではなく、軍争ぐんそう篇の理想を現実に体現した戦略家でした。武田軍団全体が、銅鑼や太鼓、旗印(金鼓きんこ旌旗せいきの合図一つで、あたかも一つの意志を持った生き物のように「風林火山」の戦術を使い分ける様は、孫子そんしが描いた統一指揮の完璧な実践そのものでした。