孫子

行軍篇

市場環境に応じて最適な戦略を選択し、不利な状況を避けることが成功の基本である。競合の微細な動きや市場の変化から、その意図や状況を正確に読み取ることが重要である。組織の統制は、明確なビジョン(文)と厳格な規律(武)の両輪によって確立される。
最重要格言
兵は怒りて其の将を迎うるは、怒りて未だ服せざるなり

兵士が怒って将軍のもとに訴えに来るのは、怒りがまだ収まっていないからである。組織内の不満を早期に察知する洞察力が必要。

孫子そんしいわく、およそ軍をき敵を相るに、山を絶つには谷に依り、生を視て高きにり、隆きに登りて戦うこと勿かれ。此れ山にるの軍なり。

水を絶てば必ず水に遠ざかる。客、水を絶ちて来たらば、これを水中に迎うる勿かれ。半ばわたらしめてこれを撃つは利あり。戦わんと欲する者は、水にきて敵を迎うること勿かれ。生を視て高きにり、水流を迎うること勿かれ。此れ水上にるの軍なり。

沮沢そたくを絶つには、惟だすみやかかに去りて留まること勿かれ。若し軍を沮沢そたくの中に交うれば、必ず水草に依りて衆樹しゅうじゅを背にす。此れ沮沢そたくるの軍なり。

平陸にるには、あなどに拠りてしかして生を右背うはいにし、死を前にし生を後にす。此れ平陸にるの軍なり。 およそこの四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。

およそ軍は、高きを好みて下きを悪み、みなみを貴びて陰を賤しむ。生を養いて実にる。軍に百疾無し。これを必勝といわう。 丘陵・堤防には、必ず其のみなみりて、しかしてこれを右背うはいにす。此れ兵の利にして、地の助けなり。

上雨、水沫至らば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待ちて渉れ。 およそ地には、絶澗ぜっかん天井てんせい天牢てんろう天羅てんら天陥てんかん天隙てんげきあり。必ずすみやかかに去りて近づくこと勿かれ。吾はこれに遠ざかり、敵はこれに近づかしむ。吾はこれを迎え、敵はこれを背にせしむ。 軍行に、険阻けんそ潢井こうせい蒹葭けんか・山林・翳薈えいかいの者有らば、必ず謹みてこれを覆索ふくさくす。此れ伏姦ふくかんる所なり。

敵、近くして静かなるは、其の険をたのむなり。遠くして戦いを挑むは、人の進むを欲すればなり。其のる所、あなどなるは、利なればなり。 衆樹しゅうじゅの動くは、来たるなり。衆草に障多きは、疑わしむるなり。鳥の起つは、伏するなり。獣のおどろくは、覆するなり。塵、高くして鋭きは、車の来たるなり。卑くして広きは、徒の来たるなり。散じて条達じょうたつするは、薪を採るなり。少なくして往来するは、営軍えいぐんするなり。 辞、卑くして備えを増す者は、進むなり。辞、つよくして進駆しんくする者は、退くなり。軽車、先ず出でて其の旁に居る者は、つらするなり。約無くして和をう者は、謀なり。奔走して兵をつらぬる者は、期するなり。半進半退する者は、誘うなり。 杖にりて立つ者は、えたるなり。水を汲みて先ず飲む者は、渇したるなり。利を見て進まざる者は、疲れたるなり。鳥の集まる所は、虚しきなり。夜、呼ぶ者は、おそれたるなり。軍のみだるるは、将の重からざればなり。旌旗せいきの動くは、乱るればなり。の怒るは、つかみたるなり。 粟を馬に食らわしめて其の肉を食らい、器をこわちて道を覆い、いえに還らざる者は、窮寇きゅうこうなり。 諄諄じゅんじゅん翕翕きゅうきゅうとして、しずろに人に言う者は、衆を失うなり。しばしば々賞するは、窮すればなり。しばしば々罰するは、くるすればなり。先にあらにして後に其の衆をおそるるは、不精の至りなり。 来たりてわびする者は、やすまんと欲すればなり。兵、怒りて相い迎え、久しくして合わず、又相い去らざるは、必ず謹みてこれを察す。

兵は多きを益と為すに非ず。惟だ武進すること無く、以て力を併せ敵をはかるに足れば、取るなり。夫れ惟だおもんぱかり無くして敵をあなどる者は、必ず人にとりこにせらる。 卒、未だ親附しんぷせざるにしかしてこれを罰すれば、則ちせず。せざれば、則ち用い難し。卒、已に親附しんぷせるに、罰、行われざれば、則ち用う可からざるなり。 故にこれを文を以て撫し、これを武を以てととのう。これを必取と謂う。 令、素より行わるるは、以て民を教うればなり。令、素より行われざるは、民を信ぜざればなり。 令、素より信にして、衆と相い得る者は、亦利なり。

孫子そんしが言う。およそ軍を配置し、敵情を観察するには、

・山を越える際は、谷沿いの道を進み、視界の開けた高地に陣を構え、高所にいる敵を攻め上ってはならない。これが山地における軍の配置である。

・川を渡り終えたら、必ず川から遠く離れよ。敵が川を渡って攻めてきたら、川の中で迎撃してはならない。敵が半分ほど渡ったところを攻撃するのが有利である。戦おうとする者は、川岸に陣取って敵を迎えてはならない。視界の開けた高地に陣を構え、川の流れに逆らって布陣してはならない。これが川の近くにおける軍の配置である。

沼沢地しょうたくちを越える際は、ただひたすら速やかに通り過ぎ、長居してはならない。もし沼沢地しょうたくちで戦うことになったら、必ず水草のそばに陣取り、林を背にせよ。これが沼沢地しょうたくちにおける軍の配置である。

・平地においては、平坦な場所に布陣し、高地を右か背後に置き、前面に死地(危険な地形)、後方に生地(安全な地形)がくるようにせよ。これが平地における軍の配置である。

およそこの四つの軍の配置法の利点は、かの黄帝が四方の帝王に勝利した所以である。

およそ軍隊は、高地を好んで低地を嫌い、日当たりの良い場所を尊んで日陰を避けるものである。兵士の健康(生)を保ち、物資の充実した場所に陣取る。そうすれば、軍に様々な病気が発生することはない。これを必勝の態勢という。 丘陵や堤防では、必ずその日当たりの良い南側に陣取り、それを右か背後に置け。これが軍事上の利益であり、地形の助けを得るということである。

上流で雨が降り、川の水かさが増してきた場合、渡ろうとする者は、水かさが安定するのを待ってから渡れ。 およそ地形には、「絶澗ぜっかん」「天井てんせい」「天牢てんろう」「天羅てんら」「天陥てんかん」「天隙てんげき」という六つの危険な地形がある。必ず速やかにそこから離れ、近づいてはならない。自軍はこれに遠ざかり、敵をこれに近づかせよ。自軍はこれを正面に見て布陣し、敵にこれを背負わせるようにせよ。 行軍中に、険しい谷間、天然の井戸、葦の茂み、山林、草木が鬱蒼と茂る場所があれば、必ず慎重に捜索せよ。これらは伏兵やスパイが潜む場所だからである。

(敵情を観察するには)

  • 敵が近くにいるのに静かにしているのは、険しい地形を頼みにしているからだ。
  • 遠くにいるのに戦いを挑んでくるのは、こちらを前進させたいからだ。
  • その陣が平坦な場所にあるのは、何か有利な点があるからだ。
  • 多くの木々が揺れ動くのは、敵軍が接近している兆候だ。
  • 草むらに多くの遮蔽物が作られているのは、こちらを疑わせようとする偽装だ。
  • 鳥が飛び立つのは、伏兵がいる兆候だ。
  • 獣が驚いて走り出すのは、大規模な伏兵がいる兆候だ。
  • 砂塵が高く鋭く上がるのは、戦車が来ている。砂塵が低く広がるのは、歩兵が来ている。砂塵がまばらに幾筋も立つのは、薪を集めている。砂塵が少なく、行ったり来たりするのは、宿営の準備をしている。
  • 言葉遣いは謙虚なのに、軍備を増強している者は、進軍しようとしている。言葉遣いが強硬で、前進してきそうな勢いを見せている者は、退却しようとしている。
  • 軽戦車が真っ先に出てきて側面に布陣するのは、全軍が陣形を整えようとしている。
  • 何の約束もないのに和平を申し入れてくるのは、何か謀略がある。
  • 慌ただしく走り回って兵を並べているのは、決戦の時期を期待している。
  • 半分進んでは半分退くのは、こちらを誘い込もうとしている。
  • 兵士が杖によりかかって立っているのは、飢えている。
  • 水を汲みに行って、まず自分たちが飲んでいるのは、喉が渇いている。
  • 有利な状況を見ても進撃してこないのは、疲労している。
  • 鳥が集まっている所は、もぬけの殻である。
  • 夜間に兵士が騒いでいるのは、恐怖を感じている。
  • 軍がざわついているのは、将軍に威厳がないからだ。
  • 旗指物が乱れ動くのは、軍が混乱しているからだ。
  • 将校が怒っているのは、軍が疲れているからだ。
  • 馬に穀物を与え、その馬の肉を食べ、食器を壊して帰路を断ち、宿舎に帰ろうとしないのは、窮地に陥った決死の敵である。
  • 将軍が諄々と低い声で兵士に話しかけているのは、人心を失っている。
  • むやみに恩賞を与えるのは、軍が行き詰っている。
  • むやみに罰を与えるのは、軍が困窮している。
  • 最初は乱あらに振る舞っておきながら、後になって兵士を恐れるのは、最も拙劣な将軍である。
  • 使いの者が詫び言を述べに来るのは、休息を求めている。
  • 敵軍が怒って対峙しながら、長く戦いもせず、また立ち去りもしないのは、必ず慎重にその意図を観察する必要がある。

兵力は、多ければ多いほど良いというものではない。ただ、攻撃を一点に集中させず、戦力を合わせて敵情を判断できれば、それで勝利を収めることはできる。思慮分別もなく敵を侮る者は、必ず敵の捕虜となるだろう。 兵士たちがまだ親しんでいないうちに罰すれば、心から従わない。心から従わなければ、いざという時に使いにくい。兵士たちが既に親しんでいるのに、罰がきちんと行われなければ、これもまた使い物にならない。 故にこれを文(仁愛や恩賞)をもって手なずけ、これを武(軍律や刑罰)をもって統制する。これを必勝の軍という。 命令が平素からよく実行されるのは、兵士たちへの教育が行き届いているからである。命令が平素から実行されないのは、兵士たちが将軍を信頼していないからである。 命令が平素から信頼され、兵士たちと心が通じ合っていれば、それもまた利益となる。

行軍篇が扱う主題

行軍篇環境適応と情報収集について書かれています。

孫子そんしは「四軍の利」として、山・水・沼沢・平地の4つの環境に応じた最適な戦略配置を説きました。また敵情察知の重要性と、組織統制における「文武」のバランスを論じています。

行軍篇の特徴的な教え

孫子そんしは「兵は怒りて其の将を迎う」として、組織内の微細な変化や兆候から本質的な問題を読み取る洞察力の重要性を説きました。これは現代のリーダーシップにおける早期問題発見能力の原型です。

四軍の利

山・水・沼沢・平地の四つの地形における軍の最適配置法。環境の特性を理解し、適応戦略を選択する普遍的原則。

敵情察知

相手の微細な動きや兆候から真意や状況を読み取る洞察力。言動の裏にある本質を見抜く情報分析能力。

文武両道

組織統制において「文」(信頼関係・徳)と「武」(規律・ルール)を両立させる管理哲学。

地の助け

環境の特性を理解し活用することで得られる競争優位。自然条件を味方につける戦略思考。

なぜ現代でも重要なのか

現代のビジネスでは、多様な市場環境に応じた適応戦略と、微細な市場変化を読み取る情報分析能力が競争優位を決定します。

市場参入戦略、競合分析、組織マネジメント、プロジェクト管理において、環境適応力と情報収集・分析能力を高める手法として活用できます。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたが多様な市場環境でビジネスを展開する責任者だったら?

行軍篇の「四軍の利」と「敵情察知」を現代ビジネスに応用すると、環境に応じた戦略選択と市場変化の早期察知による競争優位の確立となります。孫子が説いた4つの環境適応原理を、現代企業の成功事例で学びましょう。

成長市場での攻勢

(平地での戦い)
Google vs 検索エンジン市場

成長期のインターネット市場(平地)で、素早い技術革新と積極的なサービス展開により、Yahoo!やMSNを圧倒して市場を制覇

実践のコツ

成長市場では競合に先駆けて積極的に攻勢に出る準備と体制はあるか?

規制市場での慎重戦略

(山地での戦い)
Apple vs 中国市場

規制の厳しい中国市場(山地)では、現地パートナーとの提携(谷間)を基盤に、政府との関係を慎重に構築して事業を展開

実践のコツ

規制や制約の多い市場では、安全な基盤を確保してから段階的に進出する戦略があるか?

競争激化市場での機動戦

(水辺での戦い)
Netflix vs 動画配信競争

競合が次々参入する動画配信市場(水辺)で、Disney+やAmazonが本格参入(半渡)したタイミングでオリジナルコンテンツ強化で対抗

実践のコツ

競合が市場参入する際、その弱いタイミングを狙って攻撃する戦略があるか?

不安定市場での迅速撤退

(沼沢地での戦い)
Facebook vs ロシア市場

政治的に不安定なロシア市場(沼沢地)では、規制強化の兆候を察知して迅速に事業を縮小・撤退し、リスクを回避

実践のコツ

政情不安や規制リスクの高い市場では、迅速に撤退する判断基準と実行力があるか?

実践チェックリスト

この章の核となる思想を掘り下げる

兵は怒りて其の将を迎うるは、怒りて未だ服せざるなり

古典の文脈

この格言は行軍篇の敵情察知の章で示された、組織内の微細な変化から本質的な問題を読み取る洞察力の重要性を表しています。「兵が怒って将軍のもとに訴えに来る」という表面的な現象の背後に「怒りがまだ収まっていない」という根本的な不満があることを見抜く必要があるという教えです。これは現代のリーダーシップにおける早期警戒システムの考え方の原型です。

現代的意義

現代の組織運営において、この教えは「表面的な症状ではなく根本原因を見抜く」重要性を示しています。部下の態度変化、顧客からの苦情、市場での小さな異変―これらの「小さなサイン」を見逃さず、その背景にある本質的な問題を早期に発見することが、大きな危機を未然に防ぐ鍵となります。優れたリーダーは「氷山の一角」を見て「水面下の巨大な氷塊」を想像する能力を持っています。

実践的価値

明日からあなたができること

毎日の業務で「微細な変化日記」をつけてください。部下の表情の変化、顧客の反応の微妙な違い、競合の小さな動き ― これらを記録し、その背景にある「本当の理由」を考察する習慣を身につける。週末に振り返り、表面的な現象と根本原因の関係性を分析することで、問題の早期発見能力が飛躍的に向上します。

歴史上の人物による実践例

「四軍の利」と「敵情察知」という行軍篇の核心原理は、日本史上最も洞察力に優れた軍師によって完璧に実践されました。環境に応じた戦略選択と、微細な変化から敵の真意を読み取る能力で天下統一に貢献した戦略家の物語です。

黒田官兵衛 - 中国地方攻略における情報戦と環境適応戦略

黒田官兵衛は行軍篇の教えを完璧に体現した情報戦の達人でした。

「四軍の利」として、山城攻めでは谷間に本陣を置いて補給路を確保し、水辺の戦いでは敵の渡河タイミングを狙って攻撃し、平地では機動力を活かした迅速な展開で敵を翻弄しました。「敵情察知」として、敵城の炊煙の変化から籠城軍の士気を読み取り、使者の表情や言葉遣いから城主の真意を見抜き、地元民の態度から内通者の存在を察知するなど、微細な変化から本質を読み取る能力に長けていました。

官兵衛の戦略は武力による制圧ではなく、情報による心理戦で敵を降伏させる「知謀」の極致でした。