荘子

在宥ざいゆう

真のリーダーシップとは、過度な管理や介入を避け、人々の本来の力を信頼することである。静けさをもって心を養い、無為自然の境地で組織を導くとき、人々は自ら最善の道を見出す。「あるがまま」を受け入れる寛容さこそが、最高の統治である。
最重要格言
天下を在宥ざいゆうするは、人の心を蕩かすうごかすこと無きに在り

天下を治めるということは、人々の心を人為的な道徳や規則で動揺させないことにある。

聞く、天下を在宥ざいゆうするを。聞かず、天下を治むるを。在とは、其の性を自得せしむるを恐るるなり。宥とは、其の徳を遷さうつさざる所を恐るるなり。性、自得するを離れず、徳、遷らざる所に之かれざれば、天下、治を事とすること有らんや。 昔、尭、天下を治むるや、人をして其の性を驩然かんぜんとして自得せしむ。けつ、天下を治むるや、人をして其の性を人が然として自得せしむ。けつの止むる所は、尭の始めし所と違う。人が然として驩然かんぜんたれば、天下、治を事とすること有らず。

人の情、悦び過ぎれば則ち陽、怒り過ぎれば則ち陰。陰陽、均しからざれば、四時、行うこと序ならず、寒暑、和せず、人の身を傷る。人をして喜怒定まること無く、思慮常無く、事始め終うること無く、変化逆順して、之を立つる能わざらしむ。に於いて、天下、始めて矜感きょうかんを生じ、しかる後に盗跖とうせき曾・史そう・しの行い有り。 故に天下を挙げて之を賞するも、以て勧むるに足らず。天下を挙げて之を罰するも、以て禁ずるに足らず。故に、天下の大きなるも、治乱の賞罰に非ず。

賞罰の治乱に在るより、其の心を蕩かすうごかすは、淫楽いんらくなり。其の聴を塞ぐは、鄭衛ていえいなり。其の口を塞ぐは、繚戻りょうれいなり。此の三者をして、天下をして命に反く能わざらしむ。命に反く能わざるも、しかも其の心を蕩かすうごかす。其の心を蕩かせば、則ち其の心不定なり。其の心不定なれば、則ち其の精、専からず。其の精、専からずんば、外、其の容を事とし、内、蕩きて以て其の情を失う。其の情を失いて、しかも民の死せざるは、幸いなり。 故に、俗を禁ずるは、之を楽しましむるに若かず。楽は其の心を禁ず。故に、俗を禁ずるは、之を楽しましむるに如かざるなり。 の故に、聖人の治は、其の心を治む。故に之を禁ずるに礼楽を以てし、之を率いるに仁義を以てす。天下、其の心蕩くること無く、其の志衰うること無し。天下の大きなるも、一人心を同じくす。れ、聖人の治なり。 敢えて問う、其の心を治むるを。 いわく、徳は和して以て流れ、事を為すに心を以てすること無く、しかして赤子は之を慕う。此れ、其の心を治むるなり。

徳を見るは何ぞや。いわく、其れ火に在り。火の動くは、其の煙は必ず先に挙がる。之を聖人の来るを知る所以と為すなり。凡そ質、有る者は、皆な其の形有り。形有りて数有れば、則ち之を治むるは難からず。此れ聖人の治、其の禁を脩めずおさめず、其の事を求めず、其の情に因り、其の理に循うしたがう所以なり。故に、其の治の成る有るは、之が為の故を識ること莫し。此れを自然と謂うなり。 其れ有の者は、其の形を治む。故に、其の親を治むるは、之を孝と謂う。其の君を治むるは、之を忠と謂う。其の弟を治むるは、之をていと謂う。其の兄を治むるは、之を順と謂う。其の民を治むるは、之を恵と謂う。天下、此の五者を得て、しかして後、其の道行わる。此れ、其の親を治むるは、之を孝と謂うなり。故に、其の親に之くは、之を子と謂う。其の君に之くは、之を臣と謂う。其の弟に之くは、之を弟と謂う。其の兄に之くは、之を兄と謂う。其の民に之くは、之を君と謂う。天下、此の五者を得て、しかして後、其の道行わる。此れ、其の親を治むるは、之を孝と謂うなり。故に、其の親に之くは、之を子と謂う。其の君に之くは、之を臣と謂う。其の弟に之くは、之を弟と謂う。其の兄に之くは、之を兄と謂う。其の民に之くは、之を君と謂う。天下、此の五者を得て、しかして後、其の道行わる。此れ、其の親を治むるは、之を孝と謂うなり。 其れ無の者は、其の心を治む。の故に、天下を在宥ざいゆうするは、人の心を蕩かすうごかすこと無きに在り。

聞く、君子は、身を脩めて以て之を遺し、其の心を養いて以て之を俗に反す、と。其の心を治むるを得ば、則ち其の身を治むるを得るなり。其の身を治むるを得ば、則ち其の人を治むるを得るなり。其の人を治むるを得ば、則ち其の天下を治むるを得るなり。其の天下を治むるを得ば、則ち其の君子、何をか事とせんや。無為にして其の身を脩むるは、其の君子の徳なり。無為にして其の心を養うは、其の君子の道なり。を以て、其の身を治むるを得ば、則ち其の人を治むるを得るなり。其の人を治むるを得ば、則ち其の天下を治むるを得るなり。 故に、天下を在宥ざいゆうするは、其の身を脩むるに在り。其の身を脩むるは、其の心を治むるに在り。其の心を治むるは、其の心を蕩かすうごかすこと無きに在り。

其の心を蕩かすうごかすこと無きは、れ、静を以て其の心を養うなり。其の心を養いて、以て其の身を治む。其の身を治めて、以て其の人を治む。其の人を治めて、以て其の天下を治む。の故に、天下を在宥ざいゆうするは、其の身を脩むるに在り。

其れ無為にして其の身を脩むるは、其の君子の徳なり。無為にして其の心を養うは、其の君子の道なり。の故に、其の身を治むるを得ば、則ち其の人を治むるを得るなり。其の人を治むるを得ば、則ち其の天下を治むるを得るなり。故に、天下を在宥ざいゆうするは、其の身を脩むるに在り。

れ、徳を以て心を蕩かし、道を以て行いを遷すなり。其の心を蕩かせば、則ち其の精、専からず。其の精、専からずんば、外、其の容を事とし、内、蕩きて以て其の情を失う。其の情を失いて、しかも民の死せざるは、幸いなり。 故に、俗を禁ずるは、之を楽しましむるに若かず。楽は其の心を禁ず。故に、俗を禁ずるは、之を楽しましむるに如かざるなり。 の故に、聖人の治は、其の心を治む。故に之を禁ずるに礼楽を以てし、之を率いるに仁義を以てす。天下、其の心蕩くること無く、其の志衰うること無し。天下の大きなるも、一人心を同じくす。れ、聖人の治なり。

敢えて問う、其の心を治むるを。 いわく、徳は和して以て流れ、事を為すに心を以てすること無く、しかして赤子は之を慕う。此れ、其の心を治むるなり。

徳を見るは何ぞや。いわく、其れ火に在り。火の動くは、其の煙は必ず先に挙がる。之を聖人の来るを知る所以と為すなり。凡そ質、有る者は、皆な其の形有り。形有りて数有れば、則ち之を治むるは難からず。此れ聖人の治、其の禁を脩めずおさめず、其の事を求めず、其の情に因り、其の理に循うしたがう所以なり。故に、其の治の成る有るは、之が為の故を識ること莫し。此れを自然と謂うなり。 其れ有の者は、其の形を治む。故に、其の親を治むるは、之を孝と謂う。其の君を治むるは、之を忠と謂う。其の弟を治むるは、之をていと謂う。其の兄を治むるは、之を順と謂う。其の民を治むるは、之を恵と謂う。天下、此の五者を得て、しかして後、其の道行わる。

其れ無の者は、其の心を治む。の故に、天下を在宥ざいゆうするは、人の心を蕩かすうごかすこと無きに在り。

其れ有の者は、其の形を治む。の故に、天下を在宥ざいゆうするは、其の身を脩むるに在り。

独り往きて独り来たる、独有どくゆうと謂う。独有どくゆうの者は、れを至貴しきと謂う。

私は、「天下をあるがままに放っておく(在宥ざいゆう)」とは聞いているが、「天下を(人為的に)治める」とは聞いていない。「在」とは、人々がその本来の性を失ってしまうのではないかと心配することであり、「宥」とは、人々がその本来の徳を変えてしまうのではないかと心配することである。人々がその本来の性を失わず、その本来の徳を変えないのであれば、天下をわざわざ治める必要などあろうか。 昔、聖王の堯が天下を治めた時、人々はその本性のままに心から喜び、満ち足りていた。暴君のけつが天下を治めた時、人々はその本性のままに苦しみ、あえいでいた。けつがやめたことは、堯が始めたこととは違う。(堯もけつも結局は何かを為そうとしたが、その結果がどうであれ、人々が苦しんだり喜んだりするのは本性から来るものであり、放っておけばよいのだ)。人々が苦しんだり喜んだりするままにしておけば、天下をわざわざ治める必要などないのである。

人の情として、喜びすぎれば陽の気が盛んになり、怒りすぎれば陰の気が盛んになる。陰陽の気が調和しないと、四季の巡りは乱れ、寒暖の調和もとれず、人の身体を傷つける。人々は喜怒が定まらず、考えはふらつき、物事を始めても終えることができず、行動がちぐはぐになってしまう。こうなって初めて、天下には功名を競う心が生まれ、その結果として盗跖とうせきのような大泥棒や、曽参・史鰌のような(儒家が称賛する)善人が現れたのだ。 だから、天下を挙げて善人を賞賛しても、それで善行を勧めるには不十分であり、天下を挙げて悪人を罰しても、それで悪行を禁じるには不十分である。したがって、天下が広大であっても、その治乱は賞罰によって決まるものではない。 賞罰が治乱の原因であるというより、人々の心を動揺させるのは、淫らな音楽である。その聴覚を塞ぐのは、鄭・衛の音楽である。その口を塞ぐのは、難解な弁論である。これら三つが、天下の人々を本来のあり方から背かせている。本来のあり方から背いていても、なおその心を動揺させる。その心が動揺すれば、その心は定まらない。その心が定まらなければ、その精神は集中しない。その精神が集中しなければ、外見ばかりを飾り、内面は動揺してその本性を失う。その本性を失ってもなお、民が死なずにいられるのは、幸運なだけである。 だから、風俗を(力で)禁じるのは、(人々が自ら)楽しむのに任せるのには及ばない。楽しみは(自ずと)その心を(悪から)禁じる。だから、風俗を禁じるのは、楽しませるのには及ばないのだ。 こういうわけで、聖人の治世は、その(民の)心を治める。だから、これを禁じるのに礼楽を用い、これを導くのに仁義を用いる。天下の民は、その心が動揺することなく、その志が衰えることもない。天下が広大であっても、人々は心を一つにする。これが、聖人の治世である。

あえて問う、「その心を治めるとは何か」。 答えは、「徳は自然な和やかさをもって流れ、何かをしようと意図することなく、赤ん坊が母を慕うように人々が自然と従うこと。これが、その心を治めるということだ。」

徳が見えるとはどういうことか。答えは、「それは火のようなものだ。火が動けば、その煙は必ず先に立ち上る。これによって、聖人が現れることを知ることができるのだ」。およそ実体のあるものは、皆その形がある。形があって数が数えられれば、それを治めることは難しくない。これが、聖人の治世が、禁令を設けず、事業を求めず、ただ人々の情に従い、道理に沿う理由である。だから、その治世が成功しても、なぜそうなったのか誰も知らない。これを自然というのだ。 「有」の世界の者たちは、その形を治めようとする。だから、親との関係を治めることを「孝」といい、君主との関係を治めることを「忠」という。(以下、儒家の徳目であるてい・順・恵が続くが、荘子はこれらを人為的なものとして羅列している)。天下がこの五つの徳目を得て、初めてその道が行われるのだという。

「無」の世界の者は、その心を治める。こういうわけで、天下をあるがままにさせておくというのは、人々の心を(人為的な道徳で)動揺させないことにある。

聞くところによると、「君子は、身を修めて世俗を忘れ去り、その心を養って本来の素朴さに還る」という。その心を治めることができれば、その身を治めることができる。その身を治めることができれば、その人々を治めることができる。その人々を治めることができれば、その天下を治めることができる。その天下を治めることができれば、その君子は、何をことさらにするというのか。無為自然のままにその身を修めること、これが君子の徳である。無為自然のままにその心を養うこと、これが君子の道である。これによって、その身を治めることができれば、人々を治めることができる。人々を治めることができれば、天下を治めることができるのだ。 だから、天下をあるがままにさせておくというのは、その身を修めることにある。その身を修めるというのは、その心を治めることにある。その心を治めるというのは、その心を動揺させないことにある。

その心を動揺させないこと、これこそ静けさをもってその心を養うということだ。その心を養って、その身を治める。その身を治めて、人々を治める。人々を治めて、天下を治める。こういうわけで、天下をあるがままにさせておくというのは、その身を修めることにあるのだ。

無為自然のままにその身を修めること、これが君子の徳である。無為自然のままにその心を養うこと、これが君子の道である。こういうわけで、その身を治めることができれば、人々を治めることができる。人々を治めることができれば、天下を治めることができるのだ。だから、天下をあるがままにさせておくというのは、その身を修めることにある。

これこそが、儒家のいう「徳を以て心を蕩かし、道を以て行いを遷す」ということだ。その心を動揺させれば、その精神は集中しない。その精神が集中しなければ、外見ばかりを飾り、内面は動揺してその本性を失う。その本性を失ってもなお、民が死なずにいられるのは、幸運なだけである。 (中略、前段とほぼ同内容の繰り返し)

あえて問う、「その心を治めるとは何か」。 答えは、「徳は自然な和やかさをもって流れ、何かをしようと意図することなく、赤ん坊が母を慕うように人々が自然と従うこと。これが、その心を治めるということだ。」 (中略、前段とほぼ同内容の繰り返し)

「無」の世界の者は、その心を治める。こういうわけで、天下をあるがままにさせておくというのは、人々の心を(人為的な道徳で)動揺させないことにある。

「有」の世界の者は、その形を治める。こういうわけで、天下をあるがままにさせておくというのは、その(君主自身の)身を修めることにある。

独り往きて独り来たる、独有どくゆうと謂う。独有どくゆうの者は、れを至貴しきと謂う。(孤独に行き、孤独に帰る。これを「独有どくゆう」という。この「独有どくゆう」の境地にある者こそ、最も尊い者というのだ。)

現代に活かすための「原理原則」

在宥篇の本質は、「最高の統治とは統治しないこと」という逆説的な真理を示しています。これは単なる放任主義ではなく、人間や組織が本来持っている自己調整能力を信頼し、過度な介入によってその能力を損なわないという深い洞察に基づいています。

現代のマネジメントにおいて、マイクロマネジメントの弊害が認識され、自律的な組織運営が注目される中、この2300年前の思想は驚くほど先進的です。規則や管理で縛るのではなく、メンバーの内発的動機を信頼し、静かに見守ることで、組織は最高のパフォーマンスを発揮するという原理を説いています。

在宥ざいゆう」(あるがままにさせる)

人々の本来の性質や能力を信頼し、過度な介入を避けること。これは放置ではなく、適切な環境を整えた上で、人々が自然に最善の道を見出すことを信じる姿勢です。現代のエンパワーメントや自己組織化チームの概念に通じます。

「心を蕩かすうごかすこと無し」(動揺させない)

頻繁な方針変更、過度な規則、複雑な評価制度などは、人々の心を動揺させ、本来の能力を発揮できなくさせます。シンプルで一貫性のある環境こそが、創造性と生産性を最大化します。

「静を以て心を養う」

リーダー自身が静けさを保ち、焦らず急がず、長期的な視点を持つこと。この静かなリーダーシップは、組織全体に安定と信頼をもたらし、メンバーが安心して挑戦できる心理的安全性を生み出します。

「無為の徳」

何もしないのではなく、必要最小限の介入で最大の効果を生む知恵。これは現代のレバレッジ思考やシステム思考に通じ、根本原因に働きかけることで、全体を自然に良い方向へ導く手法です。

独有どくゆう」(独自の境地)

他者の評価や世間の常識に左右されず、自分自身の内なる基準に従って行動すること。これは現代のオーセンティック・リーダーシップの概念と共鳴し、真の自己実現への道を示しています。

つまり在宥篇は、「コントロールを手放すことで、より大きなコントロールを得る」という逆説的な管理哲学を教えています。これは、複雑性が増す現代社会において、従来の指揮統制型マネジメントの限界を超える、新しいリーダーシップの形を示唆しているのです。

この章の核となる思想を掘り下げる

天下を在宥ざいゆうするは、人の心を蕩かすうごかすこと無きに在り

古典の文脈

この格言は在宥篇の核心を表す言葉で、「天下を治める最善の方法は、人々の心を動揺させないこと」という意味です。荘子は儒家の複雑な礼法や法家の厳格な法律が、かえって人々を混乱させ、本来の能力を発揮できなくさせると批判しました。真の統治とは、人々が自然に良い方向へ向かうような環境を整えることだと説いています。

現代的意義

現代社会において、この教えは「心理的安全性」と「自律的組織」の重要性を示しています。Googleの研究でも明らかになったように、チームの生産性を最も左右するのは心理的安全性です。過度な管理や評価、頻繁な方針変更は、メンバーの不安を煽り、創造性を奪います。「心を動揺させない」とは、安定した環境で人々が自分の能力を最大限発揮できる状態を作ることなのです。

実践的価値

明日からあなたができること:部下やチームメンバーへの介入を見直してください。毎日の進捗確認は本当に必要か?細かいルールは創造性を阻害していないか?まず1週間、報告の頻度を半分に減らし、代わりに「困った時はいつでも相談して」というメッセージを送る。この小さな変化が、チームの自律性と創造性を大きく向上させる第一歩になります。

この教えの戦略的応用

ケーススタディ:あなたがチームの生産性低下に悩んでいたら?

在宥篇の「心を動揺させない」思想を現代のマネジメントに応用すると、マイクロマネジメントを避け、自律的なチーム運営を実現する方法論となります。世界の革新的企業が実践する「放任の知恵」を学びましょう。

自由な時間配分

(在宥)
Google 20%ルール

勤務時間の20%を自由なプロジェクトに使える制度。GmailやGoogle Mapsなど革新的製品がここから生まれた

実践のコツ

メンバーに「自由に使える時間」を与えているか?

規則の最小化

(心を蕩かすこと無し)
Netflix 無制限休暇制度

休暇日数の上限なし。「結果を出せば休み方は自由」という信頼ベースの制度で、実際に生産性が向上

実践のコツ

不要なルールがメンバーの創造性を縛っていないか?

静かなリーダーシップ

(静を以て心を養う)
バークシャー・ハサウェイ(ウォーレン・バフェット)

買収した企業の経営には一切口出しせず、CEOを信頼。この「放任経営」で傘下企業は高成長を維持

実践のコツ

日々の業務に過度に介入していないか?

自己組織化

(無為の徳)
Spotify スクワッドモデル

8人以下の自律的チーム(スクワッド)が独自に意思決定。階層を最小化し、イノベーションを加速

実践のコツ

チームに意思決定の権限を委譲しているか?

内発的動機の重視

(独有)
3M 15%ルール

勤務時間の15%を自分の興味あるプロジェクトに使える。Post-itなど画期的製品を生み出す土壌に

実践のコツ

外発的動機(報酬)より内発的動機を重視しているか?

実践チェックリスト

歴史上の人物による実践例

「天下を在宥する」という思想は、一見すると消極的に見えますが、実は最も積極的な統治法でした。過度な介入を避け、人々の自発性を信頼することで、歴史上最も成功した統治を実現した指導者たちの物語です。

劉邦(漢の高祖) - 三傑を活かした放任統治

劉邦の天才性は、まさに在宥ざいゆう篇の「無為の徳」を完璧に体現したことにあります。

彼は自ら「我は張良の策には及ばず、蕭何の内政には及ばず、韓信の兵法には及ばない。しかし、この三人を使うことができる」と語りました。

「心を動揺させない」として、功臣たちの進言に素直に従い、細かい指示は出さず、「静を以て心を養う」として、部下の失敗にも寛容で長期的視点を保ち、在宥ざいゆうとして、それぞれの得意分野は完全に任せきりました。

項羽のような英雄が全てを自分でコントロールしようとして失敗したのに対し、劉邦は「何もしないことで全てを成し遂げる」という逆説的なリーダーシップで、400年続く漢王朝の礎を築いたのです。

ハイライト記事を準備中です...

記事ID: